民具補説 4極真空管国民型ラジオ 私たちの集落は他の集落よりも電気が配電されるののが遅く、昭和17年になってようやく配電されました。(居谷・寄合を除く他集落は大正12年配電) 当時、配電の条件として電気会社が提示した条件のひとつに集落に5台のラジオを購入するということがありました。それで、集落で昔「旦那衆」と呼ばれていた家々でラジオが購入することになりました。 しかし、そのラジオは国民型ラジオと呼ぶ真四角の形のラジオでしたが、電波条件の悪い石黒ではピーピー、ザーザーという雑音が多くて、たまに放送が聞こえると「あっ、聞こえた」と喜ぶというほどの聞き取りにくさでした。 このラジオは「4極真空管国民型ラジオ」という名前であったと思います。ラジオに興味を持った子どもの頃の私は、箱の裏側のフタを取り外してみました。中には4本の真空管がありました。それを取り外してみると真空管の根元には金属の細い棒が4〜6本付いていました。 私は、こんなものが遠い東京で放送する電波を細い鉄線(アンテナ)をとおして受信できる事がとても不思議に思われました。 その数年後に松代の方からラジオ屋さんがやってきて、国民型ラジオをみて「こんなラジオじゃあ、山の中では駄目だ。もっと性能のよいラジオをおれがもって来る」といって帰っていきました。 そして、2、3日後に新しいラジオを数台背負ってきて、早速、土間口の屋根から庭の杉の木に針金を張ってから、座敷でラジオを取り出しました。それは、今までのラジオとは全然違う形でした。ラジオ屋は「これは6極と言って真空管が6本付いているからよく聞こえるぞ」と言いながら電気とアンテナをつなぎましたがなかなか音が出ません。そのうちピーピー音を出し始めました。ラジオ屋の話では真空管が温まるのを待つ必要があるとのことでした。 そのうち放送がはっきりと聞こえだしました。家中の者が喜んで歓声を上げ、私たち子どもは座敷を走り回って喜んだことを憶えています。 父は、私たち子どもが悪戯をしないように座敷の高いところに棚を作りそこにラジオを載せておきました。 その頃から私は、電気というものは不思議なものだ、電球で光を出したり、ラジオで音を伝えたり、そもそも、電気は、どのようにして電線を伝わってくるのだろうかなど色々考えてみました。そんなことから、自分は電気について勉強して将来電気屋になりたと思い柏崎の工業学校へ入れてもらいました。 その数年後に、ラジオ屋がもってきたのは高さ30p、幅45pほどの長方形のラジオで6極真空管でゼネラルという会社のものでした。このラジオは更に性能が優れていましたので長い間使いました。今でも壊れてはいますが棄てないで保存してあります。 文・図 田辺雄司(居谷) |