昭和40年の地すべり

田 辺 雄 司

 今でも忘れもしない、それは昭和40年の3月6日のことでした。その日、私の家ではカヤぶき屋根の葺き替えをしていました。カヤ講で村中の人から、茅場から運んでもらったカヤで玄関上の屋根の葺き替え作業を始めたばかりの時でした。
 集落の奥の方で、「おーい、ぬげがでたぞうぉ」という声が聞こえます。私は屋根の上から北側の谷を流れる川を見ました。川の水は、ものすごい泥の濁流です。こりゃあ大変なことになったと思い、仕事は職人に任せて現場の様子を見に走りました。
 すると、チョウナ坂の山から滑ったらしく1.5mもある残雪の上に幅広い亀裂が横に走っているのが見えました。
 私はすぐに区長宅に走りましたが、あいにく区長は高柳役場に出張して留守でした。
 だが、このままでは土砂が川をせきとめ水が雪の上を走ることになる。場合によっては、少し下流の川沿いにある2軒の家は浸水の危険があると思い石黒消防団に連絡をすることにしました。区長の判断を仰ぐべきとの意見もありましたが、私は一刻を争う事態と判断したのでした。

地すべり発生の場所

 そして、二軒の家の大事な家財を、ひとまず分校に運ぶことにしました。困ったことに屈強な村人のほとんどが未だ出稼ぎから帰ってこない頃で村では人手不足でした。間もなく他集落から応援の人々が続々と到着しましたが、他集落とて同じ事で、ほとんどは年寄りや女衆でした。
 そのとき石黒郵便局長の田邊さんが来てくださったので局長さんにも相談にのってもらました。とにかく川に沿って雪を掘って流水路を作ることが必要ということになりました。だが、そこは何回もの雪崩が積み重なったところで堅く雪がしまっていて年寄りや女衆には非常に骨の折れる作業でした。
 私は、地すべりの様子と、これからの対応について区長と二度三度と連絡をとり、区長に一刻も早く帰って来てくれるように頼みました。また、村の女衆にはすぐに炊き出しの用意、一斗の米を大釜で炊く準備を頼みました。
 ただ心配だったことは、多くの年寄りや女衆が休むこともなく、汗だくで堅い雪を掘って一時も早く流水路を作ろうと無理をして病人が出ることでした。
 そのことを局長さんに話すと、『なぁに、冬中、雪堀ばかりした者ばかりだから大丈夫でしょう』と言ってくれましたので安心しました。
 午前中は、気温が低いために土砂はあまり動かなかったのですが午後になって気温が上がってどうなるかが心配でした。幸い、午後も土砂の流れは変わらなかったので作業を続けました。
 高柳役場から新聞社にも連絡が行ったらしく、当時、赤電話の置かれていた私の家に、地すべりについて知らせてほしいという電話が次々とかかってきました。
 私は、今後の復旧援助を県や国から受けるためにも報道機関によく現状を知ってもらうことも大切だと考え、一人でも多く雪堀りの人手がほしいところであったが、電話の応対をすることにしました。新聞社は、被災の危険のある家や地すべりのおきた山の名前、現在の状況など次々と尋ねてきました。新聞社も現場に向かったのですが冬道のため居谷まで来たのでは明日の朝刊には間に合わないと門出集落から電話をしたのでした。
 午後3時ごろになると、やはり気温の上昇に伴い、少しずつ土砂の流れは速くなってきました。流水路もあらかたできたので消防団の方々から全員安全なところに引き上げてもらいました。
 その直後でした。安心したせいか年寄りの男の人が急に病みだしました。私は、心配していたことか起きてしまったと局長さんに対応を相談しました。局長さんは、まあ、話もできるし、脈もしっかりしているのでこのまま医者に行けば大丈夫だろうということでその集落の人から病人を運んでもらうことにしたのでした。本当に気の毒なことでした。
 夕方になって帰ってきた区長は「お前がいるから心配ないと思って会議に出てきた」とのことでありましたが、私としては納得がいかず声を荒げて苦言を呈したことを今も覚えています。その後、地すべりも止みほっとしています。
                       〔2008.3.10記〕