○石黒村刈羽郡の別区にて黒姫山南の僻村なり。黒(地名石黒の)は黒姫の黒に縁あるか。
○石黒を分つて上石黒、下石黒の二つとなす。
○地蔵嶺黒姫山の西嶺にて、この嶺を越えて上条郷へ至るなり。(甲子□主人大正3年6月8日内山茂助君と、此の峠を越えゆるにおそろしくて這いしを内山に笑われたり)
踰地蔵嶺
狂風捲雨下崖嵬 □緑粉紅勢欲摧
夏気如秋襲衣袂 峭寒特地粟肌来
地蔵峠
見渡せば石黒村や高柳
折居女谷森の間に間に
○頸城郡各村へ至る道あり
○石黒の名は、八百年前の庸平図に見ゆ p-1
○古高帳に
高四十六石弐斗二升一合 家九軒 内七高持 二無田
○天和三年検地、刈羽郡は津軽家の受持にて竿大将は大道寺隼人なりしが、此の石黒板畠は真田信濃守の受持にて竿大将は木村縫右ェ門なり 案内人は板畠の中村治兵ヱと田邊 (壽平の先)なり
○享和三年八月柏崎 山田甚次郎花坂新田を開拓す
○現今 八十戸餘
○黒姫社
○田辺氏 上石黒の上母屋
重左ェ門 安政四年 名字御免
重五郎 明治十一年 戸長
大吉
壽平
○大橋氏 下石黒の下母屋 政利
△石黒村 庄屋 組頭
右村百姓文左ェ門 母儀九十才に候處届出無念に付追込五日申付下事
p-2
慶応二年 柏崎御役所
○石黒村酒の密造
○石黒村酒の密造者多し、冬、税吏道に迷い木小屋の木挽に道を問う。木挽は早速承知して屋外へ出ると村の方へ向かって大声にて「おーい、今税務署のお役人様が酒探しに御座らしったすけ御迎え御座らっしゃいと 御役人は道は分ったが酒は一滴も見付けられず、ああこんな所へ冬来るものではないとあり。
○石黒村尋常高等小学校長 竹田反之助 宮嶋清志
○青年会
○当村芋を作るもかたくして食うる能わず、石芋という
○名物 栗 炭 百合 ぎん石
○大野 折居村より 二里十八戸
大橋兵右ェ門
○中後 二十戸
○枝谷 十餘戸
○落合 二十四戸
外山 狸平に地変あり
○寄合(□合いとも書く) 十四五戸
名物 煙草
旧家 矢沢角左ェ門 今 久吉
○あざみ平 十四五戸
○嶺 この村もと刈羽郡に属せしが明治六年頸城郡に編入す
p-3
○板畠村
古高帳に
高六十六石五斗 此家九軒内高持五 無田四
柏崎の小林嘉兵ヱ 雪積り新田を起こす
同 宮川才策 前沢新田起こす
藤野俊平 前沢新田起こす
籐野俊平 前沢新田起こす
女谷 布施庄兵衛 嶽新田を起こす 今畑となる
○山間不毛の地なり 天明、天保の餓饉に大困窮
△関守雄の天保餓饉の記に「松の山の村々殊に中子村、板畠村なんどは藁のふしを食いけり、夫れも皆食い尽して後には松の皮を製え(※こしらえ)て命を継ぎけるとぞ知らせ給う殿よりも助けの米とて村々へいたくいでぬ(云々)
○幕領
○現今 六十戸
p-4
○名物 杪 (ぼい)
○中村氏 板畑の親屋(おもや)さんという
新田氏の後胤なりという
(新田氏家系略)
以下、代々治平妻は山中の石塚九兵衛より
治兵衛 妻は山中石塚より
紋○に上 治兵衛妻は門出村村田佐衛門より
禅宗 治兵衛妻は門出村村田より
先祖、義雄、落人となり頸城郡大安寺(今の西の入安住寺)
と共に此の板畠の城館に落ちつきしも風当りはげしく
夫れより此の方、現在の地ににうつる大安寺は頸城郡大平に
在りしも後廃寺となり過去帳その他刈羽郡の西ノ入り
安住寺へ伝ふ当家には過去帳元禄頃の人名ばかりこれ
古きことなし 安住寺に木羽板様のものに
天照院殿義山仁田大居士
p-5.6.7.系図略
貞操院殿真室容光大禅定尼
此二霊はいた畠中村氏の位牌なりという
什物
美濃兼定 長二尺七寸 兼則 一尺一寸二分
備前長船住 助広 検穂長八寸三分
備前作無名二尺一寸五分
武州 下原住 広重一尺七寸八分 無銘一尺二寸九分
具足一具 一寸八分の□ (金具月箱入古来明けず)
駒疋銭 布引銭 稲荷銭
毒消皿一枚
枕がへりの玉一つ
枕返へしの掛物一幅
囲碁の古倹図(吉備大臣囲碁の図という)
甲子構主人いわく
⑴中村氏、武士の落人たりしは争うべからず、然れども新田
市の系血とは如何候や 前記新田氏の大系図をみれば不
審の点あり、或は先祖の法名に仁田の字あるを以て仁
田と誇唱せし候にや
⑵古刀剣多くは足利氏の末葉の製作なり
⑶絵銭は徳川初代の頃より出来しものなり
⑷居返(こがえり)りの玉はガラス玉なりこの辺の散布難産の時
この玉を見せれば、安産するという
△山田望海老曰く 偏部の地にて土民ガラス玉などをしらず
チャカチャカするを見て、たまげて子を産みだすのだと
⑸枕返しの□ 小国谷に□□
⑹絵の吉備大臣、以後の図と申伝ふるを見るにこれ
は源氏物語の空蝉の巻を絵にせしものなり
(源氏物語空蝉の巻抜粋文は略)
p-8
柏崎文庫の内「石黒村」を抜粋 解読文責 大橋寿一郎
※柏崎文庫は関甲子次郎氏が生涯をかけてまとめた地誌的郷土史。
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