私は、昭和17(1942)年7月4日、京都府舞鶴市字浜352番地に生まれた。当時、自宅分娩が普通であり、当然自宅で母が私を出産した。産婆さんは、東舞鶴駅前直ぐの三条通りと三笠通りの角に開業されていた、小野さんという人でであった。もちろん生まれた時には、産婆さんのことは、後から母(オコ、後に改名し、こう)に聞いた話である。出産の時、家の外にかなり大きな欅(?)の木があって、この木にロープを結び手で力を掛け踏ん張ったそうである。この木は、ずっとあったが、後年、家を改築した時に切られてしまった。この小柄な産婆さんは、小学生の頃に、黒塗りの婦人用自転車に乗っている姿をよく見かけた。子供心にお世話になった人という認識はあった。生まれた時は、太平洋戦争(昭和16(1941)年12月8日ハワイオワフ島のパールハーバ米海軍基地に奇襲攻撃により開戦となった。)開始から、7ヶ月後であり、既に日本帝国海軍が、ミッドウエー会戦(昭和17年6月5日~7日)で破れ、負け戦が始まっていた時期であった。成人して知ったのであるが、私の誕生日7月4日は、アメリカ独立記念日であり、アメリカ人に由緒ある日であることを知った。
さて、最も古い記憶は、生まれた部屋の窓越に、寺川の対岸にあった民家を大勢の人がロープを掛けたりして壊す立ち退き作業である。大声を掛けながら引き倒す様が、一番奥の記憶としてある。私が、満2歳8ヶ月頃ではないかと思われる。次の記憶は、義理の兄(異母兄弟で13歳年上、宝蔵さん)と二人で海岸に出掛けていて、急に空襲警報のサイレンが鳴りわたり、急いで自宅に向かった。兄は、歩きの遅い私を背負い一目散に二条通りを南に向かい、家に急いだ。背中に負ぶわれて空を見ると、大きな4発の飛行機B-29爆撃機が編隊を組んで飛んでいた。未舗装の二条通、民家の直ぐ前の道路にあちこちに防空壕があり、道端が盛り上がり中へ入る入り口の穴があるのを見た。不思議と恐怖感はなかった。上に飛行機、下に防空壕を同じ時間に見たことになる。帰り着くまで、15分程でなかったかと、大急ぎで家の近にたどり着いた時、母と伯母(父の兄の妻 イトさん)が防空頭巾を被り、私の防空頭巾を持って、「何処へ行っていたー」と大声で酷く叱られた。この時は、爆撃はなくB-29の編隊が上空通過しただけでであった。後年、母からあの時、もしも爆撃でお前が死んだらどうしようかばかり思っていたそうで、当時の親の心情は、死ぬのであったら子供と一緒に死のうという考えが一般的であったと思う。次の記憶は、家の庭にあった防空壕である。その防空壕は、庭続きににあった国鉄中舞鶴線(東舞鶴駅と海軍工廠のあった中舞鶴駅を結ぶ)の土手の直ぐ横に入り口を設け北に約3メートル行き直角に東に約5メートル、幅が約1.5メートル、高さ約1.5メートル程のL字形のものであった。これを作ったのは父と伯父(父の長兄、源次さん)であった。父の話によると、爆撃被害を避けるために、二人で自家用の防空壕を作ることを決め、土を掘り、その上に国鉄から譲り受けた古い枕木を隙間なく並べ、土を被せたものであった。壁となる面は、板を張っていたようであった。床は、古畳とゴザであったようだ。内部照明は、自動車のバッテリーで灯る半円球の電灯があり、大切な大事物を入れた箪笥が1つ入っていた。空襲警報が鳴るたびに防空壕に駆け込んで、防空頭巾を被りうずくまっていた。防空壕のバッテリーと半円球の黄色い光を放つ電灯が印象としてある。ある昼間、警戒警報が鳴り、防空壕に急いで駆け込んだ。この時、母と伯母と私であったのか。飛行機の爆音「ブーン」と、対空機関砲の音「ダツ、ダツ、ダツ、ダツ-―――。」が凄まじく聞こえ、後に観た戦争映画の音と同じ様なものであった。対空機関砲は、近くの三笠山にあったらしく、又、舞鶴湾を囲む山々の山頂にある対空陣地からの対空射撃音であったのか定かではないが、凄まじい戦争音であった。暫くして、伯母が、「家が焼けてしまっているかもしれない?」と言いながら入り口の戸を開け恐々と外を見て、「家はまだあるはー」という声を聞き、小さいながらもほっとした。次の記憶は、二番目の兄(異母兄弟私より8歳年上干城さん)が、学童集団疎開を丹後の美浜(栗田?)にしており、集団で慰問に母と行ったことである。東舞鶴駅から汽車に乗って行ったのであろうが、その記憶は無く、大勢の学童が大きな部屋(お寺でなかったか?)に集まって座っており、そこに親が尋ねるということであった。母から兄が何処に居ると言われ兄の居るところに走って行ったことを憶えている。この記憶と前後関係は分かれないが、日中、急に空襲警報のサイレンが鳴り、家の近くに出ており、防空壕にたどり着くまでに少し時間がかかるため、母が急いで私を連れ、寺川の窪みに身を隠した。暫くすると「ドーン」というものすごくおきな音と振動を感じた。後で父から戦争中の話を聞かされ知ったことであるが、海軍工廠敷地内の工場棟の直ぐ横の山にB-29から投下された1トン爆弾が爆発して、海軍工廠で大きな被害が出た。爆弾投下の山は、随分長く赤土が剥き出し状態にあり、私が中学生の、昭和30年頃まで赤土の山肌で樹木が生えていなかった。父は、当時海軍工廠の職工をしており、又、伯父(父の兄 源次さん)も同じ海軍工廠に勤めていた。父の話によればこの時多くの勤労学徒動員の男女中学生が、工廠の工員と一緒に亡くなり、累々とした死骸は、喉が上になり、顔面は後ろに反り返る形に多くがなっていたという。この少し前、父は、自転車で西舞鶴の倉谷工場に行くように上司から言われていたのであるが、自分の自転車が見当たらなく探していた。その時、爆撃があり爆弾が破裂した。もしも、直ぐに自転車があったら、爆撃地点の近くを通っており巻き込まれたことになっていたという。父の自転車を無断使用した人は、その爆撃で亡くなり、その自転車が壊れた形で発見されたという。生死を分かつ運命は不思議な物であったという。この時、伯父が被害の大きい工場に勤務しており、父は探し回ったそうであるが姿がなく心配していた。暫くして、伯父の姿を見て安心した。伯父は、業務で工廠の北側の山を越えた雁又地区に出掛けており、死なずに済んだという。これら記憶が最も古い断片な記憶であり、戦争の恐怖の中にあった幼児の記憶である。
この話は、ずっと後で父から聞いた話であるが、父が工廠で仕事をしていた時、貨車に鉄板を積み込む作業を行っていた。貨物の定格積載量まで積み込んで止めかけた。この時、上司の人が、もっと積めという指示があった。父は、無理だと言ったそうであるが、逆らえずその指示の通り積み込んだ。貨車は、中舞鶴線から、東舞鶴駅を経由して小浜線の敦賀付近で、貨車の車軸が壊れ、脱線事故となった。調査の結果、貨物に荷物の積み過ぎであり、事故調査において詰問を受けた。この時、自分は過積載になると断ったにもかかわらず、上司の強い指示があったことを説明した。その結果、父の身の潔白が認められた。
父母の故郷は、新潟県刈羽郡高柳町で、父は板畑、母は、岡野町という所である。二つの地区は、大凡山道で約10km離れている。そこに行くには、東舞鶴駅から、小浜線で敦賀駅に、北陸線、信越線を乗り継ぎ柏崎駅の次の安田駅で降りる。安田駅から岡野町まで、約25kmをバスに乗り、岡野町停留所に着く。東舞鶴駅を夜7時頃に出発して、翌日の昼頃に岡野町に着くことになる。戦争が終わって、お米の配給が滞っている時、母の里にお米を貰いに父と一緒に列車に乗って出掛けた。4歳の頃だったと思うが、季節は憶えていないが、寒くなく、雪もなかったことと、お米が出来るのは秋であるから、10月の中旬頃であったのではと思われる。敦賀駅で2時間近く列車の乗り換え待ちがあり、駅の待合室のベンチに座っていた。かなりの多くの人が居たように思う。少し離れた所に、アメリカ兵がおり何か食べていた。私と、そのアメリカ兵の目と目が合い、次にアメリカ兵が手招きを始めた。私は、とても恥ずかしがり屋であり、直ぐにそのアメリカ兵まで一人で行く勇気がなく暫くじっと見つめていました。父に促されたか、アメリカ兵が私の所に来てくれたのか定かな記憶は無いが、白くやわらかな物をもらった。白いパンであり、その中に肉の様な物が入っていた。食べた時美味しいく経験したことのない初めての味覚であった。その当時、それが何であったのか分らなかったが、成人して思うには、それはハム・サンドイッチであることを確信した。
ホームには溢れる程の人がおり、列車の到着を待っている。列車が入ってくると、我先に乗り込むことになる。私の様な小さな子供は、この時代旅をするには無理なことだったと思う。列車が止まると直ぐに父は私を抱きかかえて、列車の窓からすいませんと言いながら、私を半ば投げ入れる格好で車内に入れ、自分は、後から人混みをかき分け私の近くに来てくれる。人が段々降りていき少なくなり、座る余裕が出来一緒に座る。夜が明けて車窓から飛び込んでくる景色に、線路の横に横倒しになって、赤茶けた機関車があった。この機関車は、戦争中に、米軍機に銃撃や、爆撃を受け脱線転覆した物だ。この様に列車が横倒しになっているのが二箇所あったのを見た。4歳の幼児にはただ景色の中に戦争の爪あとを観ただけで、何の感情もなかった。母の里に着いて、母の父(忠作さん)、継母(母の実母は、母が6歳の時に結核で亡くなっていた。)、母の弟夫婦(忠吉さん、やえさん)が迎えてくれた。田舎の藁葺屋根の家で、大きな囲炉裏があり、火が絶えまなく焚かれており、天井からの鍋吊りに大きな鍋が湯気を立てていた。夕食は、囲炉裏の部屋の板間にムシロが敷かれており、箱御膳が各人に置かれた。真っ白いご飯、大きく切られた豆腐の入った味噌汁、野菜の煮物と当時満足な食事をしていなかった私は美味しいと感じ、この時の食事の味は、今もはっきりと憶えている。ご飯を食べると口元から飯粒が落ちムシロの目の中に入る。それを拾い口入れ、ムシロを綺麗にしなければならないということに気を配った。父は、お土産に、当時田舎では手に入れることが難しかった、縫い針、糸、塩(岩塩)等を持っていった。次の日、父の里の板畑に行く用意をした。とても大きな臼形の握り飯(約二合ご飯で1つ)で、中に味噌漬けを入れ、周りに味噌を軽く塗り、囲炉裏火の横で焼き、竹皮で包んだどっしりとした弁当であった。予め父の直ぐ上の兄(源作さん)に連絡していたのでしょう。その兄がやってきて、助けてもらいに山道を行く手はずであった。この兄は、板畑で農業の傍ら、博労をしており、馬や牛の仲買を春と秋の季節にやっていたことで、母の里に出入りしていた。父が、子供二人抱え舞鶴で困っており、後妻を探しているという話を母の里に話をした。その話に、母の父が乗り、母と父が結婚したという。岡野町から板畑に続く道は、黒姫山の中腹にあり、小さな幼児が山登りするような山道を歩くのは足でまといになったのでしょう。父の兄が私を背負ってくれた。途中に水が噴出す大きな祠のような所で一休みとなった。父の兄は、傍にあった大きな木の葉を取って、手で円錐形に形作り、噴出す水をすくい取り飲ませてくれた。冷たく美味しい水であった。喉が涸れて水を飲む時、何時もこの時飲んだ水を思い出す。きっと、脳に強烈にインプットされたのであろう。板畑の家は、山の斜面上を平地にして、段々畑に続く土地に麦藁屋根であった。家の周りは、浅い池になっており、鯉が飼ってあった。この地方は、新潟県の豪雪地帯であり4~5メートルの積雪地帯であることから、除雪と融雪のために家の周囲を池にしており、食用に鯉を飼っている。夕食にこの鯉を使った鯉の味噌汁が出たが、そんなに美味しいものと思わなかった。お米を貰い舞鶴に帰ってきたのであろうが、全く帰りの記憶はない。
同じ頃の春であった。食べ物となるものを求めて、家から南の方の白鳥方面に母と二人で出掛けた。ヨモギが畑の横に生えていたので、母がヨモギを摘み始めた。その時、畑仕事をしていたおばさんが「そこは、うちのヨモギであるので摘むな!」と声を荒げて叫んでいた。びっくりして、その場を立ち去った。その帰り道、竹薮の小道を通ると、道端に竹の子が出ており、母が2本竹の子を手で折り手提げ袋に入れた。私は、咄嗟に悪いことをしていると感じ、すぐさま母の手提げ袋の中から竹の子を取り出し竹薮に捨てた。母はびっくりしていたが、やはり悪いことをしたのであると感じておりそのまま家に帰ってしまった。結局、何も成果がなかった。このヨモギと竹の子の件は、母は高齢になっても憶えており時々、思い出した様に私に話をしたものである。4歳位になると善悪の区別はつくものである。
木のジープのおもちゃ
私の記憶の中にあるおもちゃは、木のジープである。親から買って貰った物なのか、誰かにもらったのか知らない。町内会の運動会の賞品ということを聞いたような気がする。大きさは定かでないが、長さが10センチ、幅が6センチ、高さが5センチくらいで子供が片手でやっと持てる大きさである。車輪4個も木であり、釘でボディーに止めてあり回転出来る。色は緑に塗ってあり、いわゆるアメリカ陸軍のジープである。木のブロックに、車輪4個が釘で取り付けられている単純な物であった。いつもこのジープのおもちゃを片手で押し体をかがめて眺めていた。手垢で汚れ、全体に黒く汚れていまい、緑の色も剥げてしまっていた。このおもちゃが唯一の物であった。幼稚園に行っていないので社会性のある環境の経験はなく幼児期を過ごした。幼児期の本は、全く記憶になく、恐らく絵本を買って貰ってないように思う。幼児期は、夜寝る時は、父と一緒に寝ていた。父は、自分の育った新潟の昔話をしてくれた。中でも山姥の話は、怖く恐ろしい話で、里から子供を盗んできて、塩を付けてカブリ喰いしてしまう山姥である。
又、大雪が降る冬の暮らしの話では、雪が降って根雪になってしまうと、大きな木も埋まり、谷や小川も埋まってしまう。そうなれば、スキーやカンジキを履いて自由に歩け行動出来る。冬ならばの自然の恩恵であり、何処でも自由に行けることは、素晴らしいことだそうだ。一方、時には、雪が雪崩れを起こし、家が巻き込まれて春まで死人を見つけることが出来ないことになる。実際に雪崩で家が流される被害が時々発生したという。この時期、病人が出ると、村人総出で医者を迎えに行くのにソリを引く、病人をソリに乗せて医者のところに行く、大変であったという。家人が死んだ場合は、親類の人が葬式に来るのが困難であり、春になって本葬式をやることになる。父は、昔話や自分が生まれ育った村の生活、青年になって出稼ぎで、東京や、秩父で働いた話を寝物語にしてくれた。
小学校入学前後のこと
三笠小学校は、歩いて7、8分の所にあり、直ぐ近くに共済会病院があった。入学前に母から、平仮名を習い、とりあえず「なかむら ただお」が書けることから始めた。「む」の字が大変に難しく、丸めた下が左の方に長く張り出してしまいうまく書けなかった。片仮名は、なんとなく学校に行って読み書きできるようになった。入学は、昭和24(1949)年4月に入学した。入学の準備に、服とズボンは伯母がミシンで縫ってくれた。生地は、カーキ色(国防色といった。)の綿布で、ボタンは、瀬戸物の桜の花模様で5つボタンの学生服であった。伯母は、浮島にあった、海軍縫製工場で軍人の衣服をミシン縫いをやっていた人で、手先が器用であった。私の体に合わせて採寸して作ってくれたものでした。これらは恐らく、戦争中の残りの資材を活用したのでしょう。
カバンは、兵隊さんの緑色の雑嚢入れ(ザック)で、未使用の物であった。このカバンを肩から斜めに提げる。この頃からランドセルが一般的で、近所の友達はランドセル、私は、ザックで何時も羨んだ。しかし、私はランドセルにしてくれとは言わなかった。親は、ランドセルを買えないだろうと思っていたからだ。ザック・コンプレックスは、今でも私のトラウマとしてある。小学校の入学式の後、1年4組池内先生(女)に配置された。幼稚園に行っていた子供らは、友達もおりワイワイ元気に喋っているが、私は、これといって友達がいなく黙っていた。先生が、オルガンを演奏して、「ムスンデ ヒライテ」を教えてくれた。初めての音楽の授業であった。その後、先生が大きな時計の模型を出して、「11時は?」という問い掛けがあり、丁度、私を指名した。私は、びっくりしてしまい、恐る恐る前に出て、その時計の針を大小合わせて「11の位置に置いた。」先生が、これでよいかを皆に問うた。皆が「ちがうー」と言う。急に小便がしたくなり、大急ぎで中庭にあった便所に駆け込んだ。後で、母が時計で11時を教えてくれた。入学初日の出来事であった。自分ながら、大変に緊張した1日であった。当時の履物は、ゴムのズック、学校の上履きは藁草履であった、家に帰ると、ゴムのズックを下駄に履き替えていた。ゴムのズックは、素足で履くことで、脱ぐと、足が黒く筋状に汚れる。藁草履は、1足5円で三笠通りの学校近く、中舞鶴線踏み切り下の加藤文房具店で買っていた。草履が水に濡れると重くなって、そのうち傷みが早く、履き心地が悪くなるものであった。草履が、運動靴になったのは、3年生頃になってからだと思う。学校では給食なく、昼に脱脂粉乳のミルクを飲むことであった。カバンにアルミの食器を袋に入れ、授業が終わって帰る前に、6年生がミルクを入れた手提げ容器の中から、勺で机の上に置いたアルミの食器に注いでくれる。完全に溶けないブツブツが一緒に入る。全員入ると「イタダキマスー」と飲む。私は牛乳嫌いであり、ミルクを飲むのには勇気が必要であった。目を瞑り一気に飲み込む。味はどうでもよかった。ブツブツにかかると大急ぎで飲み干した。この脱脂粉乳は、アメリカ政府の援助か、ユネスコの援助で子供の成長を配慮した支援であった。2年生の2学期から、完全給食となって、コッペパン、おかず、脱脂粉乳の組み合わせで、6年生卒業まで脱脂粉乳のお世話になった。冊子粉乳の入っていた容器は、ドラム缶位な大きさで、丈夫な紙で出来ており、空になった容器に中に、ボールや運動会の用具入れに再利用されていた。
学校の健康管理の行事で、回虫駆除、ノミ、ダニ、シラミの駆除があった。それ以外には、結核病予防のツベリクリン反応とBCG注射、定期健康診断であった。回虫駆除は、海草(海人草)を煎じたのを飲む。飲んだ後、排便をすると白い回虫が一緒に便と出てくる。この頃は、回虫がお腹に寄生していることは当たり前(常識であるという考えの範疇)であった。入学して暫くして、腹が痛くてたまらなく、共済会病院に母に連れられて診察してもらった。その時、何故か右足太ももに大きな注射をされることになった。元来、注射が恐ろしかったので、注射の針が入った時に大暴れして抵抗した。その動きで注射針が折れ込んだ。医師と看護婦さんは、びっくりして、折れた針が体に廻ると死に到ることになる。看護婦さんが私をだき抱えて、レントゲン室にお急ぎで連れて行き、右足太もものレントゲン写真を撮った。幸いにも折れた注射針は未だ太ももにあり、直ぐに外科手術となり取り出された。傷口は、二針縫いのものであった。生まれて初めての、現在までの人生で1回の手術である。メスの跡は成長に伴って大きな傷跡になった。学校は、このため3日間休んだ。手術の後、落ち着いてから排便した時、沢山の回虫がウドン玉の様になって出た。お腹の痛みは治まった。検便があり、自分の便を少量マッチ箱に入れ、学校に持って行き検査を受けたものである。
ノミ、ダニ、シラミの駆除のDDT噴霧である。大きな水鉄砲の様な金属製の注射噴霧器で、首の周りから背中、腹、腰からパンツのゴムをくぐってシュー、シューと噴霧される。その度、冷たい感触と白いDDTの粉が体のあちこちから出てくる。女の子は、頭髪にも噴霧されていた。男の子は、殆ど丸坊主頭であったので、頭には噴霧されなかった。ダニ、シラミを除くと、ノミはいても当たり前というような常識の範疇であった。
日通の荷物運搬馬車
私が、小学校5年位(昭和29年頃)まで、日通はトラックを持っていたが、馬車を多く使用していた。馬車馬の厩舎が、家から寺川の上流に向かって約200mの所にあり、馬が10頭程おり、朝に馬車が出て行く。夕方には帰ってくる。時には、荷物を積んでポッカ、ポッカとやってくる。我々は、馬車がやってくるのを待っていて、地下足袋を履いた馬丁が手綱をとって馬車の左横に座って前方を見ている。後ろから、そっと馬車に近づき馬車の後端にぶら下がる。馬丁に見つかるか、腕が疲れるかどちらかまでぶら下がり楽しむ。子供の背の高さと、馬車の荷台の高さの関係が丁度よく、ぶら下がったら膝を後ろに曲げ地面に足を着けないようにする。馬丁のおじさんも子供の悪戯を心得ていたのでしょうが、暫くすると「コーラァー」と言う一声、急いで手を離し一目散に逃げる。この繰り返しをして遊んだものだ。馬車は、1頭引きで、荷台は平らであり、幅が1.5m程、長さが5m程、荷台の高さは1.2m位、馬をつけると、馬の鼻先から、荷台の後端までは、大凡、7~8mの大きさで、前輪は旋回自由になっており、後輪は大きなゴムタイヤの物であった。ゆっくりと、ユラユラ道を行くが、時々尻から馬糞を落とす、小便をすることで、道を汚すやっかいなものであった。当時、荷馬車が通る道には、馬糞が落ちていて、銀蝿がたかっていたものだ。道路は、未舗装が多く、水溜りの窪みも多くあり、日通の馬丁さんも大変であったのではないかと思う。厩舎の清掃があり、寺川に入り魚とりをしていると、急に水が茶色に濁ってくる。「馬のションベンやー」と誰かが叫ぶと、川から一目散で上がることになる。馬車が無くなり車に置き換わり、厩舎は改造されて人の住む長屋になった。
友達のこと。
小学校時代の遊び友達は、私の場合大きく二つあった。家から見て中舞鶴線の線路を越えないエリアと、線路を越えたエリアである。線路を越えないエリアは、女の子ばかりで、森下さっちゃん(3歳上)、成田きよちゃん(1歳上)、堀内よしこちゃん(1歳下)であった。この女の子達とは、3年生位まで時々遊んだがどんな遊びをしたのか記憶ににない。恐らく、ままごと遊びであってのではないかと思う。2年生の頃だと思うが、母と、伯母が私を捕まえて、「おまえは、きよちゃんを叩いただろう!」と叱かった。何もしていないので「知らない!」と言った。今度は、羽交い絞めにされて挙句の果て、背中の腰の背骨の真ん中に灸をされてしまった。全くの冤罪であった。後から分ったことであるが、さっちゃんが母と、伯母に嘘を言っていたことであった。何故、さっちゃんが嘘を言ったのか全く分らなかった。その時の灸の跡が今でも薄っすらと痕跡を止めている。
畑にまつわること
我が家の寺川を挟んだ対面は、立ち退きで壊された民家を更地にしてその後、畑にして父が地主から借りていた。結構広い畑であり農家上がりの父は野菜、芋等を作っていた。造船所に勤めていたので、農作業は主に早朝の出勤前にやっていた。夏の日、野菜が度々盗まれており、父が犯人を捕まえようと暗いうちから見張っていた。畑は、東舞鶴駅から森方面に通じる幹線道路に面しており、容易に畑に入れる。その時、一人の男が畑に入って、野菜(かぼちゃ?)を盗んだので、父が飛び出して行き捕らえた。捕らえられた男は、片手の手首から先がなく父はびっくりし、その男も即座に謝った。丁度そこに、朝鮮人の親方のような人が通りかかり、父に何をしているかと訊ねた。父が野菜が盗まれ困っており、犯人を捕まえたと説明した。すると、その朝鮮人の親方のような人が、その男を烈火のごとく叱り付け、「朝鮮人の恥さらしーー」と言いながら、拳骨でその男を何度も、何度も殴りつけた。父は、捕まえた男が片手であり、その制裁があまりにも強くあるのでいたたまれなくなって、朝鮮人の親方のような人に、許してやってくれと頼んで収まった。この時、騒ぎが聞こえたので、私も現場に後から行ったが騒ぎは収まっていた。父は後から、朝鮮人の親方のような人は、舞鶴の朝鮮人会の偉い人であったと話していた。今から思うと、日本の植民地であった朝鮮が日本の敗戦により新しい建国に向けた国作りに向かう時であり、朝鮮人としての誇りが大きかったのでしょう。
舞鶴は、中国やソ連からの引き揚げ者の多くを迎い入れた。私の小学生に時代(昭和24年から昭和30年)に多くの人が舞鶴を内地帰還の一歩を印した。我が家は、東舞鶴駅から3、4分にあり畑が道の直ぐ傍にあった。丁度さつま芋を掘り起こしていた。大きな芋と、傷つけた芋、小さな屑芋に分けて作業をしていた。私はこの作業を半分遊びで手伝っていた。そこに駅で時間待ちをしていた引揚者の人が数人私等を立ち止まってじっと見ていた。暫くするとその人達が、屑芋を指で指してこの芋を貰えないかと父に言っていていた。屑芋は、細く少し長い根の様なものであり、細かく刻んで鶏の餌にする様なものであった。父は、どうぞと言って、古新聞に夫々の人に分け渡した。貰った引揚者の人達は、何度もお礼を言いながら駅のほうに帰って行った。子供ながらあの芋をどの様にして食べるのかと気掛かりであった。あの時代は、持っている者と持っていない者の差が大きい時代であった。戦争によって人生が変えられた多くの人がいた。
拾い物集め
私が小学1年精の頃、休みの日、伯父(源次さん)と、父、私等はゴム車輪を着けた大きな第八車を引いて、拾い物集めに出掛けた。行き先は旧軍の施設を取り壊した跡等に放置されている大きなコンクリートのブロックや、石、金属の物等であった。中舞鶴の方面や白鳥の方面に出掛けた。何故こんな物を集めたのかというと、伯父が定年後に畑の一部に当初製材所を作る計画をしていたようであった。当時、放置され、一般の人にとって利用価値のない物が空き地にゴロゴロしていたと思う。そのうちに、バラックの工場が出来上がり、パンと製麺を作る作業場になった。伯父は、終戦のドサクサに、海軍工廠から電動モーターや、沢山の工具類をどの様にして手に入れたのかは分らないがそのバラック工場に保管していた。パン工場は、工廠で自分の職場に徴用工として働いていた石黒さんと言う人を呼びパン作り、自分は、電動モーターを使い、自分で製麺機械を作り、一部は購入してウドン作りを始めた。製麺と併行して、精米機2台と製粉機を購入して精米と製粉を行った。食について伯父は第二の仕事を選んだ。
闇米のこと
闇米というのは、おばさんが直接農家に出掛けて行って、玄米を買い伯父の精米工場に持ってくる。駅に近く農家に買出してきた米背負いおばさん達が夕方近くたどり着く。精米工場で白米にする。精米代金は、安く糠は精米代金の一部になる。米糠は、鶏と家鴨の餌に使われる。鶏が100羽、家鴨が100羽程伯父は飼っていた。米の調達は、若狭方面、綾部、梅迫方面である。当時の田舎は店も少なく、おばさん達の一部は、町で手に入る生鮮食料品を持って行き、帰りは玄米を持ち帰る様な人もいた。又、精米された米を、京都の旅館や、一般の家庭に持って行くおばさん達がおり、その人達は早朝の列車で京都に向かう。伯父の精米工場が、仲立ちしていた。又、伯父夫婦も米を欲しいと言ってくる人に売っていた。米を少しづつしか買われなかった人が多く買いに来た。日雇い労働者の人達で、ニコヨン(一日の労働の対価として254円受け取る人)と呼ばれていた人達であり、1升、5合の購入であった。両者がどの様な取引で行っていたのか知らないが、おばさん達が集まれば話が弾む場となっていた。伯父夫婦は、製麺、精米、ある時は製粉、鶏と家鴨の世話、山羊の世話とかいがいしく働いていた。おばさんの中に、何人かの朝鮮人の人がいた。この中で小柄なおばさんがいた。この人の日本語は上手な発音でなく、独特な喋り口調であった。年末にそのおばさんが、朝鮮のお餅を作って伯父夫婦に持ってきた。私は初めて朝鮮の餅を身近で見た。何種類かあって、ピンク色で米粒が混ざった物や、ケーキのような形の物があった。日本の餅よりお菓子に近い様に感じた。伯母はおいしいだろうが?と戸惑っていた。その内に、そのおばさんは朝鮮に帰ることになり、挨拶に来て北朝鮮の帰還船で帰ると言ってきた。その内見えなくなった。現在、北朝鮮についてニュースを見る度にあのおばさんと朝鮮の餅を思い出す。
(2007.11.22追記)
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