20450730 自分は、定年退職した翌日(1999.4.1)から毎朝、仏壇の前に正座して読経をすることに決めた。 
 とはいえ、信仰心からではない。退職により生活の縛りが解け、締まりのない生活になることを恐れたからである。経本
(※正確には経本ではないが・・)は「正信偈」と「白骨の御文」、「三帰衣文」、そして、「般若心経」と「正法眼蔵の行持(上)」である。 たかが15分ほどの読経であるが、旅行など
で家を留守にする日以外は失念することなく続けてきた。ざっと計算するに9千回を越える。今では経本を見ないで読経できる。しかし、「般若心経」と「正信偈」 の内容はよくわからず、「門前の小僧習わぬ経を読む」に等しい。とはいえ、「読書百遍自ずから云々」という言葉もある。いかにボンクラであろうとも「万遍」近く読めば、自ずとその内容も分かろうと想われるが、正直なところ殆ど分からない。
 ただ、正信偈では悟りを目指した修行などを重視していない様に読み取れる。無駄とは言っていないまでも勧めてはいないことは慥かだと思う。
 また、「悪人正機」の意味は、わが浄土真宗では昔から最も多く論じられたテーマであろう。元々これは「悪人」という言葉の解釈を明確にしないことが誤解の原因と思われる。
 ところで、私は、人間としての自己を高めるために出家して修行に励む人間が、我々一般の人間より特に優れているは思わない。とはいえ、彼らの、自己を高めようと厳しい修行に真摯に取り組んでいる姿には感動を覚える。
 まず、このように、自力で努力して自己の無力さを痛感して他力本願に至るという生き方こそ、最善の道ではなかろうか。「悪人正機」のややこしい表現は極端な比喩的表現であり、我々凡人向けではないと思う。最古といわれる蓮如上人の写本には「この書は門外不出」と付記されているという。その理由は仏法をよく理解していない者には誤解を招くおそれがある事だと記されているという。そのため、「歎異抄」が今日のように一般の人々に読まれ始めたのは明治の末頃との記述もみられる。
 ちなみに、自分が所持している中村元著の仏教大辞典によれば「悪人正機」の項には「(前文略)師法然にもこの思想があったとする文献もあるが、法然ではこの逆が一般的である」とある。
 自分は出家者でも、在家として仏道を実践する者でもない。ただ自分を律し調えて生きる生活を身に着けようと自分なりの努力を続けて来たつもりである。
 しかし、思い立ってから70年余も過ぎた現在、残念ながら自分の願いとその実現のための細々とした努力も「空しい試み」に終わってしまおうとしている。そして今、86才となり人生の終末期を迎え、心身、特に頭脳が急速に退化していくのが不気味なほどに感じられるようになった。
 畢竟、我々人間は自力では自己変革を遂げることはできない存在なのであろう。

 さて、悪人正機の大悪人である自分もそろそろ、「大いなる汝」との対話力(念仏)を体得し、残されたかけがえのない日々の「今」を感謝と共に生きたいものである。

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