近江絹糸争議
 昭和23〔1948〕には資本金が3000万円に過ぎなかった近江絹糸紡績株式会社はその後10年で資本金10億円、従業員13000人の大企業に急成長した。
 実は、その急激な発展の裏には労務管理の前近代性があった。
〔※戦前の昭和15年当時、石黒からたくさんの女性が京都などの紡績工場で働いていたが、その人たちに聞き取りをしてみると、恵まれた環境で仕事がができたと語っている。しかし、近江絹糸争議は戦後、現行の労働組合法、労働基準法等が制定された以降の争議であることを注目したい〕
 具体的には「休暇は1ヵ月に1回、信書の開封、私物検査、仏教の強制、サークル活動の禁止等々」の基本的人権をないがしろにした労務管理が行われていた。人権問題で現地を調査した法務省人権擁護委員も「格子なき獄舎」だと認めた。
 これに対して昭和29年5月「格子なき牢獄の奴隷労働を改善させるための労働組合をつくろうという気運がたかまり、粘り強い運動がおこなわれついに同年に「近江絹糸紡績労働組合」が結成された。
 これに対して会社側は団体交渉を拒否したため、本社以下各工場は無期限ストに入った。しかし、他の労働組合からの応援もあり同年9月に中央労働委員会が調停に入り労働組合側の要求はほぼ認められた。
 106日にわたるこの争議は「人権スト」とも呼ばれた。当時は、まだ労働組合未組織の中小企業労働者も多い中、世論の強い支持を背景に労働者を勇気づけ「近江絹糸に続け」との気運を高めた。このように昭和21年に初めてわが国で法的に認められた後の労働組合史上大きな影響を与えた争議であった。
当時、高柳、石黒地域からも多くの人たちが紡績工場で働いていた。
参考資料→昭和27年高柳地区出稼ぎ状況グラフ

     〔参考文献 国史大辞典・家永三郎編日本の歴史