養蚕奨励策について 〔前文略〕昭和44〔1969〕年、わずか200余戸に減少したなかで、稚蚕の共同飼育は一層その必要性を増し、岡野町に地下貯桑施設を増設したのを始め、47年には集団桑園第1号3haを板畑〔※嶽〕に設置、49年には第2号集団桑園を山中地区に造成した。 この間、養蚕業界や農協の機関も時代の流れとともに再編成されていった。44年には県蚕連柏崎支所が廃止され、翌年45年には、それまで高柳の繭の出荷先であった片倉工業との取引を止めて、農協系統が設立した十日町シルク株式会社との取引開始、翌46年には新潟県経済連に統合されていった。 このような業界の変遷は、経済の高度成長とともない時代の流れとともに減少していく養蚕戸数によるところが大きく、昭和20年代には800戸を超えていた高柳の養蚕戸数も、昭和50〔1975〕年にはついに51戸、総生産量わずかに5640kgに減少していった。 こうした現象に逆らうように、高柳でも国の試みとして「出稼ぎ地域農業者就業改善対策実験事業」を板畑で実施することになった。春から秋にかけては養蚕を行い、冬季は建物等の施設を利用しての製縄の複合経営で出稼ぎを解消しようとすうものであった。 初年度昭和50年は桑園造成2ha、第2年目には飼育施設〔3.5間×6.5間〕1棟の建設と製縄機2台、縄仕上げ機1台の導入、第3年目53年には飼育施設〔初年度と同じ規模〕1棟の増設を実施、また、飼育技術の面では52年度から人口配合飼料による稚蚕飼育を実施しこれまでの方法を大きく変えていった。 昭和54年度には、国の事業としてこの地に「山間地営農型近代化共同養蚕施設事業」を導入し岡野町地区にその施設を建設、その自動管理設備など新しい養蚕技術の導入は10年前には全く想像できないものに変わっていった。 しかし、発展途上国における低価格生産のあおりを受けた国内繭価格と、労働価値観や他産業とのアンバランスは技術の進歩をも目に止めず、養蚕農家数は益々減少の一途をたどり昭和55年にはわずか17戸。営農多角経営の3本柱の一つであった高柳の養蚕業は、今風前のともし火となっている。 高柳町史「養蚕業とその施策」より抜粋〔昭和60年発刊〕 |