終戦の日の思い出
                               田辺雄司
 昭和18年に、柏崎工業高校電気科2年の私は学徒動員で同地にあった柏崎理研ピストンリング工場に勤めることになりました。工業高校の生徒は、機械科は西川鉄工所などへ、化学科は日石等へとそれぞれ分かれて動員されたのでした。
 そして、理研ピストンリングの中でも色々な仕事に分けられ、私は級友8人と共に最もきつい仕事だと言われていた溶解炉に配属されました。このことについては、以前にも書いたことと思いますがあえてまた書きます。
学徒動員による増産〔昭和18年〕

 工場の中に入ってみるとすごいホコリで、鋳型、鋳造等の女子工員は、ちょうど縁の下のようなところに立って鋳型づくりの作業をしているのでした。
 一方、溶解炉は直径5〜6mの球状でその中に電圧3000Vに電極〔炭素棒直径30cm長さ5m〕を入れそこに鉄類を入れて半日くらいで電解してドロドロに溶かします。そして鉄でできた柄杓〔柄の長さ2m、重量10sあまり〕でドロドロに解けた鉄の湯を入れて10mほど走って女子工員のつくった鋳型に流し込むのでした。〔下図参照〕
 しかし、重い上にひどく熱いので15、6歳の私たちにはほんとうに辛い仕事でした。走って運ぶ途中で慣れないため柄杓からこぼれた鉄の湯はパッ、パッと飛び散りズボンなどにあたると煙が出て穴が開いてしまいます。そんな場面を工場長に見つかると叩かれて説教されます。10日ほどで何とか慣れましたが、暑い夏にはいっそう作業は辛いものとなりました。

 また、昼食は、ご飯だけ持ってくればオカズは理研の方で用意してくれることになっていましたが、何と毎日ヒジキの煮たもの、それもよく洗わないのか砂でジャリジャリするものばかりでした。ほんとうに毎日なので飽きてしまい残すと見つかり「この非常時の食糧難の時に残すとは何事か」と怒られるので、みんなで学校にそのことを申し出ましたが少しも改良されませんでした。
 そんなことで一学期は何とかつとめその後、我々電気科だけは一週間の夏休みがありました。久しぶりで家に帰り、朝から食べられるだけたべました。
 そして、1週間が過ぎて登校し「2学期もまた理研か」と友だちと話していると校長から「電気科は今夜の夜行列車で愛知のトヨタ自動車への動員が決まったら準備せよ」との話がありました。確か、夜の11時頃に駅集合だったと思います。町の生徒はともかく下宿している私たちは困ってしまいました。担任に相談すると仕方がないまだ暑い時期だとりあえず今持っている衣類等みんな持っていって足りないものは後で家から送ってもらうようにとのことでした。
当時の溶鉱炉と鋳型の様子
 こうして、柏崎を出て直江津で乗りかえ中央線で名古屋に着き三河電鉄という電車で、今こそは自動車の豊田市として発展していますが、当時は山の中で農家が多い「挙母-ころも」という町で降りました。トヨタの会社はものすごく大きいものでした。何百人も収容できる寮が何十棟も並んでいるのには驚きました。私たちに割り当てられた寮は第8棟の二階の8室だけでした。我々は48人でしたので部屋の大小によって割りふり、私の部屋は8号室で8人でした。私は班長を命じられ毎朝晩人員の点呼をするのでした。
 そのうち、続々と地方からやってきました。新潟県では高田中学と佐渡の相川中学などでした。女学生も大勢来ていましたから、当時のトヨタには学生だけで3万人が動員されたと聞いています。

 工場の中は、大きい体育館に各機械を配列したような様子です。私たち8人ほど選ばれ、特殊工場で当時は未だ日本にはどこの工場にもない戦闘用の水陸両用車を作る部署に配置されました。
 機械については一応、学校で一年生の時に実習をやっていたので名前くらいは知っていましたが専門の工場に入ると見たこともない機械が多くただ驚くばかりでした。朝7時から夕方6時までの作業でしたのでかなり疲れましたが、腹の空くことと大きなシラミには全員が悩まされ苦しみました。
 1カ月に1回か2回の公休日には岡崎の町へ行き雑炊食堂で腹いっぱい雑炊を食べるのが何よりの楽しみでした。学校から先生が1人1カ月交代で監督に来ていたのですが、本を買うとか辞典を買うとか嘘をついて2、3人であちこちの食堂で米粒が数えるほどしか入っていない野菜やサツマイモばかりの雑炊を食べ歩きました。
学徒動員先のトヨタ自動車より家に宛てた手紙

 年も明け、戦況はいよいよ厳しくなり一晩に9回もの空襲警報があり、その度に身支度をして起きるのでしたが、そのまま夜が明けることも時々ありました。名古屋空襲の後しばらくすると、挙母のトヨタ工場も艦載機の的となり機銃掃射をたびたび受けるようになりました。掃射をうけると屋根のスレートを突き破った弾丸が工場の機械にカーン、カーンと音を立てて当たるのですが、機械は停止するなという工場長の命令でしたのでとても怖い思いをしました。そんなときには機械の陰に隠れるようにして操作しているのでした。
 そんな状態で、終戦の8月15日の朝もいつもどおり工場に入り作業をしていましたところ、正午近くに、スピーカーを通して重大なラジオ放送があるから一斉に機械を止めて聞きなさい、という放送がありました。そして天皇陛下の玉音放送が始まり、日本が降伏したとことがわかりました。私たちは驚いてただ呆然と立っているだけでしたが、女子工員があちこちですすり泣く声も聞こえました。
 すると、工場長が一段と大きな声で「これは多分ウソの放送だ、未だ軍部の方からは何の連絡もないので全員が持ち場にもどり作業を開始せよ」と言ったので全員がワイワイ言いながらも作業に戻りました。
 しかし、天皇の放送を聞いたときの衝撃は大きく、腹の空いたことも忘れてしまっていました。周りの人たちも「ほんとうに日本はま負けたのか、いや、そんなことはない」などと話しながら作業をしていました。
 その日の、夕方近くになってからのことでした。突然スピーカーで「広報、軍部より正式な命令がおりた。学生は直ちに職場を離れ、今夜の列車で帰省せよ」という連絡が流れました。私たちは、放送が終わるとすぐに寮に戻るとどの棟でも学生の声がにぎやかに聞こえました。何か叫ぶ声も時々聞こえました。
 しばらくすると。受け持ちの先生が来て「戦争は終わったが決して心を乱すな。今夜半の終列車で柏崎に帰るから支度をせよ」私たちに伝えました。私たちは一体これからどうなるのか、それとともに思ったとは、このまま帰ると、シラミを下宿や家に持ち帰ることになる。どうしたものかということでした。それでも、下着は洗濯したものがトランクの中にあったのでよかったのですが、体とくに股間の体毛についたシラミをどうするかで迷いました。みんなで考えた挙句、剃刀ですり落とすことにした。工場で苛性ソーダにきれいな油を混ぜて作った石鹸をつけて剃るのでしたが痛いやらひりひりしみるやら大変でした。なんとかみんなで無事すり落とすことができました。
 それから夏のことだから水陸乗用車の試運転をする池に飛び込んで体中を皮のむけるほどゴシゴシ洗いました。気の毒なのは女学生で、その様子をみて「男子はいいね」などと言っていたので「戦争に負けたんだ、男も女もない、お前らも頭の毛も剃ってここに入って洗えばいい。どうせアメリカの兵隊が来れば全部やられてしまうのだから」というと、女学生は「そんなことになったら自殺する」と言っていました。
 池から上がり部屋に帰って新しい下着に着替えるとまったく生まれ変わったような気がしました。夕方近く、部屋の廊下で「柏崎工業の田辺という人はいませんか」という女の声がしたので私ともう1人の田辺という級友が飛び出していきました。
 その人は同じ職場で私の近くで働いていて機銃掃射の弾にあたり少し怪我をしたときに私が手をかしてやった人で近くの農家の娘さんでした。時々内緒で家からサツマイモのゆでたものやおにぎりを持って来てくれた人でした。その人はおにぎりを大急ぎで作ってきたからと言って風呂敷に包んだおにぎりを渡すと、もう二度と会うこともできないかもしれないが、ここに私の住所を書いておいたので家についたら手紙をくれといって泣きながら帰って行きました。
 寮内のどこの部屋もにぎやかで、階下の部屋から相川中学の生徒5、6人があがってきて「よく、喧嘩をしたが、戦争に負けて何もかも終わりだ。柏崎と佐渡は近いからお互いに行き来しようや」などと言って別れの挨拶をして行った。
 翌日、柏崎に帰ると直ちに登校し校長から訓示を聞いてから家に帰りました。家では、しばらくは、ただ食って寝るばかりの日をすごした。そして二学期が始まりふただび学校にもどりました。
              
 〔学徒動員写真 株式会社理研50年史より〕