減反の悲しみ 田辺雄司 昭和45年ころより米の生産調整いわゆる減反政策が始まりました。それについての説明会があるというので出席しましたところ、国策によって減反が各市町村に強制的に割り当てられ、町ではそれを個人に割り当てなければならないとの事でした。 それまで、米は食管法により保護されていたことや、生産性の向上によって年々増産される一方、日本人の食生活の変化によって米の消費が減ったことで政府は余剰米対策を迫られたのでした。 また、わが国は、米以外の農作物の自給率が十分でなかったため、米を減反した場所にて米以外の農作物を作らせることをねらった政策で転作奨励金と呼ぶ補助金も出しました。 減反は、石黒では比較的多く耕作している農家に対して特に厳しいものになりました。いうまでもなく、減反となると農家では、日当たりが悪く遠く不便な場所を選びました。 私もその年、2反ほど減反をしました。先にも書きましたとおり国の方針では、ただ減反し田を休ませるだけでは助成金がおりないため他の作物を植えなければなりません。ですが、山の田は泥深く米以外の作物には適さないので、私は杉苗を植えることにしたました。 私は春から田の中に深い溝をつくり畔も掘り割って排水路を何本も作り排水は完全にしたつもりでした。そして、六尺〔約180cm〕真四角に一本あてに植え、もちろん畔にも植えました。確か200本植えたと思います。 しかし、先祖が投げ鍬とモッコで、米一粒でも多くと思って心血を注いで掘った田です。私は杉苗を植える前に田の畔にローソクをつけて先祖様に手を合わせてから杉苗を植えたことを憶えています。 こうして植えた杉苗も土が粘土質で水はけが悪くほとんどの苗は枯れてしまいました。かろうじて畔に植えた杉苗だけは何とか育ちました。田には雑草が生えて草刈を何度かしましたが雑草の繁殖力にはかなわず年々荒れていきました。。
その後も米余りは続き減反が続きました。田は、今では色々な雑木まで生えて、田の原型をとどめない状態です。 それにしても、現在も続く減反政策には私にはどうしても不可解な点が多く、単純に考えれば食糧難で餓死者を出している国への援助に回すこともできると思います。 昔から、私たちの先祖は、一粒でも多くの米とるために「一坪でも多くの田を」とモッコと鍬で血の汗を流して開発してきました。それが一転して現在では一坪でも多く減反せよとは。墓の下で我々の先祖が泣いていると思うのは私だけでしょうか。 |