バレー(排球)部の想い出
                                 木嶋イシ子
 我が家は学校のすぐ近くにあり、学校の体育館が年中解放されていたため小学生の頃から体育館にでかけて卓球やバレーをして遊ぶことが日課のようなものでした。
 そのお陰で中学に進学するとすぐにバレー部のレギュラーメンバーとして大会に参加させてもらいました。
        
昭和27年度石黒中学校バレー部
 当時は、石黒村中学校、高田村中学校、野田・別俣村の組合立中学校(校舎は佐水地内)、鵜川村中学校を含めたブロックを上条郷と呼び、様々な教育活動の交流を行っていました。特に体育大会は盛んに行われました。私たちは、陸上大会やバレー大会が他校を会場に行われるときには、朝早く起きて地蔵峠を越えて10q余りの道を歩いて会場に行きました。
 高度成長期前の昭和20年代のことで、生活は貧しく運動靴さえ一足しか持たず、大会前には良く洗って歯磨き粉を塗り込んで乾かして白くしたものです。試合の途中で運動靴から白い粉が飛び散ったことが、今でも時々笑い話の種になります。
 大会前日に、当時、鵜川村から教員として赴任しておられた猪俣先生のお宅に12名の選手全員が泊めてもらったこともありました。
  また、上条郷大会で優勝すると、柏崎市で刈羽郡大会があり、私も出場させてもらいました。その折りには、やはり当時石黒校に赴任されていた宮島先生のお宅に選手全員が泊めてもらいました。先生宅は海岸に近く、夕食後に海岸で夕日を眺め静かな波の音を聞きながら翌日の大会に臨む心構えを聞いたこと懐かしく想いだします。
 翌日の群大会では優勝した石地中学校との準々決勝だったと思いますが、左手ききのサウスポーの逆回転サーブで点を取られた苦い想い出もあります。
 今にしてチームメンバーを思い出すと通学に片道1時間以上かかった板畑や居谷集落の人達に優れた選手が多かったように思います。日頃を足腰を自然に鍛えたせいでしょう。

 私が子どもの頃、父は、少なくても20歳まではスポーツに熱中することの大切さを常に強調しておりました。基礎体力がつき、他人との協調心も育つのみならず、暇をもてあまして横道にそれることもないと言うのが理由でした。
 私も自分の3人の子ども達に同じことを伝えてきました。
 あの頃一緒にバレーボールに汗を流した、先輩後輩の方々はお元気でお過ごしでしょうか。ときどき、当時の写真を眺めて懐かしく思いだしております。
                        (上越市在住)