○ 資  料
「桑山太市さんは大体次のような話をして下さった。それは大正8年6月頃の話であった。桑山さんと文学友達で雑誌『少女号』の編集局長をしていた鹿島鳴秋氏が柏崎の桑山さんのところへブラリと遊びにやってきた。越後タイムス社の中村葉月さんも一緒であった。若い三人は裏浜から番神海岸をあてどもなく歩いた。貝がらを拾ったり海藻をとったりして遊んだ。きれいに晴れわたってはいるが、どこかメランコリックな日本海の色は、若い鹿島氏の詩情をかきたてた。番神海岸で彼はポケットから小さな手帖を取り出しエンピツでしきりに何か書きつけていた。桑山さんは『何か出来たら見せて下さい』とせがんだ。すると書き終わった鹿島さんが笑いながら『こんな童謡ができたよ』と手帖をみせてくれた。それには『青い月夜の浜辺には・・・』というあの浜千鳥の詩が書かれていた。・・・鹿島氏は数年して又柏崎の桑山さんを訪ねて来た。その時はすでに浜千鳥の歌が一世を風靡していた。この詩を1メートル半ぐらいの紙に書いた。そこへ桑山さんが波と千鳥の絵を書き込んだ合作を桑山さんの手もとへ残して行った。桑山さんはそれを数年前に柏崎市中通り中学の音楽教師、須田七郎さんにゆずったというのである。私は早速須田先生の家を訪ねて、鹿島さんの直筆の詩を見せてもらい写真を撮った。桑山さんが書いたという波の絵はすでに数十年の歳月によって消されていた。・・・」
(越後タイムス掲載 川崎吉近著「浜千鳥のふる里(上)」昭和35年8月7日より)。以上の文章は、文献としてあらゆる出版物に使われていますが、これは桑山太市さんから直接聞いた話を、新潟日報柏崎支局長・川崎吉近が物語風に書いたもので、その場にいたわけではない。
 このいきさつは碑建立のきっかけにもなった。歌碑を柏崎浜に建立しようという運動は、柏崎観光協会が主体となり建設委員会が結成された。歌碑の文字は鹿島鳴秋の直筆。昭和36年(1961年)7月22日に鳴秋未亡人を招いて除幕式を行った。

 ≪桑山太市と鹿島鳴秋との関係≫ 昭和41年2月20日越後タイムス「千客万来」に桑山太市自身が「鹿島鳴秋さん」という文章を寄せている。それによると、「鹿島鳴秋と知り合いになったのは、大正のごく初めごろ、俳句を作っていた頃。下谷、三の輪の梅林寺喜谷六花のお寺で、毎月開かれていた河東碧悟桐を中心とする日本派の句会で知り合ったのだという。当時、鹿島鳴秋は、駿河台下中西屋書店の裏手「小学館」に勤務。少年少女の雑誌「少女号」「幼女号」を編集しておられた。鹿島鳴秋に童話の原稿を買って貰い(原稿は1枚20銭だったようです)、酒代にあてていた」という。 ≪桑山太市と鹿島鳴秋との関係≫ 昭和41年2月20日越後タイムス「千客万来」に桑山太市自身が「鹿島鳴秋さん」という文章を寄せている。それによると、「鹿島鳴秋と知り合いになったのは、大正のごく初めごろ、俳句を作っていた頃。下谷、三の輪の梅林寺喜谷六花のお寺で、毎月開かれていた河東碧悟桐を中心とする日本派の句会で知り合ったのだという。当時、鹿島鳴秋は、駿河台下中西屋書店の裏手「小学館」に勤務。少年少女の雑誌「少女号」「幼女号」を編集しておられた。鹿島鳴秋に童話の原稿を買って貰い(原稿は1枚20銭だったようです)、酒代にあてていた」という。
 そんな関係から、桑山太市が夏休みに国もとに帰って来た時、鳴秋も二、三度、柏崎に遊びに来て、太市宅に泊まった。そして「浜千鳥」の歌ができた。」
「・・・むろん、番神浜に千鳥はいない。カモメの群れがいたが、詩人の想像力は銀の翼の浜千鳥の世界に遊んだのだろう―桑山太市氏はこう話している」
(昭和35年5月29日越後タイムス"浜千鳥"の番神浜より)。
 (以下略)                       
    -WEB『池田小百合なっとく童謡・唱歌』による-