静御前
 生没不詳。源義経の妾。白拍子。磯の禅師の娘。 平安時代末期の京都で舞の名手として知られたと伝えられる。文治元年(1185)11月、義経が兄頼朝に背いて京都より逃亡した折りに随行したが吉野山中で義経主従と離れて京都へ戻る途中蔵主堂で捕らえられ、京都で北条時政の尋問を受けた後、翌2年頼朝のいる鎌倉へ送られて重ねて義経の行方について尋問された。
 同年4月頼朝夫妻の求めにより、鶴岡八万宮で舞を舞って人々を感嘆させた。その時に、「吉野山嶺の白雲踏み分けていりにし人の跡ぞ恋しき」、「しづやしづ賤のをだまさ繰り返し昔を今になすよしもがな」と歌った。
 頼朝はこの歌を不快に感じたが、妻の北条政子が彼ら夫妻の過去の身の上に言及してこれを宥めたと伝えられる。
 同年閏7月に鎌倉で男子を出産したが、この子は義経の男子であるが故にその日のうちに殺され、同年9月に京都に還った。その後の生活ついては不明。
 「義経記」には20才のときに往生を遂げたと記されるが信用する根拠はない。後生、とくに「義経記」や能「吉野静」や
「二人静」「及び浄瑠璃「義経千本桜」4段目などによって人々に広く知られ親しまれた。
(引用−國史大辞典)

             
 二人静
 吉野勝手明神では、毎年正月7日の神事に、ふもとの菜摘から菜を摘んで神前にそなえる風習があった。それでこの年も例によって神職が、女達に菜を摘みにやらすと、一人の女が出てきて、「吉野に帰るならことずけて下さい。私の罪の深さを哀れんで、一日経
(いちにちぎょう−供養などのために大勢で経典、主に法華経を一日の間に写し終えること)を書いて弔って下さい。」と頼んだ。そして「あなたのお名前は」と尋ねられると、何も答えないで、夕風に吹きまわされた浮き雲のように、跡形もなく消えた。

そんな不思議な体験をした菜摘女は、そのことを神職に報告するのだが、女は話しているうちに顔つきが変わり、言葉つきも変わってきたので、神職は、「いかなる人がついているのか名をなのりなさい」と言うと、「静である。」と名のった。さては静御前の霊が菜摘女についたことがわかり、「それでは、ねんごろに弔うから舞いを見せて欲しい。」と女に頼む。すると女は精好織り
せいごうおり−公家や武家に用いられた絹織物の一種の袴や秋の野の花づくしの水干(すいかん−平安時代には宮廷や貴族に仕えた下級官人の服)など、みな静が勝手明神に収めた舞いの衣装を宝蔵から取り出した。女がその衣裳をつけて、舞いを舞おうとすると、いつの間にか静の霊も現われて、一人の女が二人になって舞を舞うのだった。  
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