投げ鍬田
                             田辺雄司
 昔は、清水がほんの少しわき出して水たまりになっているところを見つければ、そこを田にしたものでした。たとえ、5束(1束は8束)であろうが10束であろが稲を植えたのでした。このような田を「投げ鍬田」と呼んでました。つまり、水たまりに鍬で土を投げ入れて平らにして作った田という意味でしょう。まあ、畳を2、3枚の広さの田は昔はいくらでもあったものでした。田打ちをするにも畦から田に入らずに耕されるほどの狭い田でした。田かきの時には鼻っとりは田からあがって時には畦を伝ってしなければなりませんでした。
 そうした小さな田が、川の両側斜面にもよく見られました。ほんの少しの地下水が出ている斜面にできた小さな平ら地に作られた田でした。このような雪崩が地表を擦り落とす場所の田は毎年のように畦が雪崩とともに滑り落ちてしまい、翌年畦を塗ると田の中の土がなくなってしまうという有様でした。
 
 谷間の田

 また、谷間の田は雪崩とともに斜面の枯れた雑木や根ごと引き抜かれた低木が田の中に押し流して来ました。それらを春先に片付ける仕事がこれまた大変な仕事でした。まず、残雪の上の枯れ木や根こそぎ落ちた雑木を片付けた後、田打ち、田かきなどの時に人や牛馬が怪我をしないようにと熊ざらいなどで小さなゴミも念入りに取り除いたものでした。そして、雪が消えた後は再度、田の中のゴミを拾い出してからようやく水を張ることができました。その水も残雪の水や湧き水が頼りでしたが、毎年水路を作り直さなければなりません。粘土で一滴も漏らさないようにと丁寧に水路をつくりました。その水路も山際をできるだけ遠回しにして水を温めてから田の中に入れるようにしたものでした。それでも、水口の近くの稲は秋になっても真っ青な年もありました。
 現在のようにホースなどがなかった時代は、倒れた杉の皮を上手にはがしてそれをトヨ代わりにて田に水をひいたりしました。
 また、大雨が降ると夜中でも六角提灯や弓張り提灯をもって田まわりをして田の水の状態を見て回りました。水があふれると地滑りを起こしてしまうことがあるので特に留意したものでした。小さな田が多くの場所に散らばっている石黒では、田まわりも大変な仕事でした。
石黒では昔から「田まわりができるようになれば百姓も一人前」といわれたものです。