稲こきの思い出
                大橋洋子
 昭和30年代は、まだ足踏み脱穀機でしたが後半から40年代は動力脱穀機に変わりました。
 天気が勝負の稲上げは、一家総出で家の中へ取り込む作業は猫の手も借りたい程の気忙しさでした。
 ハサから降ろして束ねた稲は1キロ余りの道のりをリヤカーでなん往復もして、がんぎ(縁側)や二階、とまぐち(玄関)から中庭までびっしりと積み込まれました。
 それを夜なべ仕事で脱穀するのですが乳呑児がいたりすると仕事がはかどらず、次の取り込みが迫っているので残しておくわけにはゆかず大変でした。
 子どもを寝かせつけた後、そっと寝室から抜け出して作業衣に着替えて脱穀を始めるのでしたが途中で目を覚まして泣くと急いで作業服を脱いで寄り添い寝せつけました。そんなことを3,4回繰り返すうちに、朝5時の時報のサイレンが鳴ったこともあったことが今になると懐かしい思い出として心に残ります。