耕耘機を初めて購入した時の思い出
                        田辺勇司
 昭和31年〔1956〕頃であったと思いますが、私は膝に水がたまる病気になり、当時、松代の内科医院に通っていました。10日に1回ほど通院して膝から黄色の水を抜き取ってもらっておりました。
 治療後は足取りも軽く帰路についたものでしたが、ある日の帰路で田んぼの中に異様な機械を持ち込んで田かきをしているのを見て驚きました。しばらく、その様子を眺めておりますとその機械を使っていた人が「これは、耕耘機と呼ぶ機械で田打ちから田かきまで一人でできる機械だ」と説明してくれました。
 当時は、どこの家でも人手や牛馬によって田打ちや田かきをしていた頃なので、私はびっくりしてしまい家に帰るまでそのことが頭から離れませんでした。
 それから、2、3年後に隣村の機械好きな人が耕耘機を購入したと聞き早速、話を聞きにその家を訪ねました。
 私は「こんな重い機械は深田には入れられないでしょうね」と尋ねると「いや、大丈夫だ」との返答でした。
 当時、私は2町歩ほどの田んぼを耕作していましたが、その内の1反余りの広さの田には所々に泥深い場所がありました。元来、馬は臆病な動物で、深いところに行くと急に走り出すなどして危ないので深い場所には馬を近づけないように注意していました。
 私は、耕耘機を使っている人に、この事を話をしたところ「深いところも耕耘機は大丈夫」ということで翌日、実際にやって見せてくれることになりました。
 その人は、翌日耕耘機を持ってやって来て、深田へ通じる急な坂道をバックで下りてきました。前進ではハンドルの位置が高くなり持てないからだ、と聞かせてくれました。
 私は、田の深い部分にカヤの茎を立てて置いて様子を観察しているとその場所へ行くと機械はそのまま進み人は後からついて行くだけで何の問題もありません。その様子を見て私は「これは、すごいもんだ。自分も是非購入したい」と思いました。
 
 昔の耕耘機
 その年は昭和36年で石黒農協が高柳農協と合併した年でしたが、私は早速農協に注文しました。
 使用するには部品の運搬も必要なので耕耘機一式〔田打ち・田かき具〕の他にリヤカーも購入しました。当時は、未だ石黒地区では一人も購入した者はなく私が最初でありました。
 注文した耕耘機が農協から届いたのは、11月の初めで、共同カヤ場のカヤ刈りが行われた日でした。ちょうど昼食の時間で真向かいに見える隣村へ通じる道〔現在の国道353〕に赤い車のようなものを走らせてくる人とそのあとからトラックがついて下りてきたのが目にとまりました。村人は「あれば、何だ、見たこともないもんだ」と話題になったとのことでした。
 私が耕耘機を購入したことを知ると村人の中には「そんげな重い機械が田に入れば泥にはまってしまうがの」などと馬鹿にする人もいました。
 そのうえ、父親からも「家には馬がいるのに何ということだ」と一晩中怒られました。いつもは温和な父から怒られて私は無言で聞くより仕方ありませんでした。当時のお金で一式20万円、その上、動かすには燃料代がかかります。馬なら野山の草を刈ってきて食べさせれば事足りるのですから、父にしてみればわざわざ金を出して田打ちをする馬鹿はどこにいる、という気持ちでしたでしょう。
 しかし、私は、すでに耕耘機を使っている人が近郷にいるのだからいずれ2、3年の内には石黒のどこの集落でも購入する人が出てくることと信じていました。
 翌年の春耕の時期には農協の職員より道具の名前やら車輪の組み立て方だのを詳しく教えてもらって田打ちをしました。最初の1時間ほどは思うようにはいきませんでしたがだんだんコツがわかると手際よくできるようになりました。下段の田に下りるときにもハンドルを持って静かにバックで下りるのでした。
 農協職員は「もう大丈夫だ、まあ慣れない内は気をつけてください」と言い残して帰っていきました。その日は、村の人たちも何人も見物にきて田の畔で見ていました。
 耕耘機は田打ちや田かきだけでなく、リヤカーを付ければ何でも運搬もできてとても便利でした。しかし、現在の国道の道でさえ砂利一粒も入っていない時代でしたから、泥んこ道でしたので秋の稲運びには四苦八苦の連続でした。
 翌年になりますと、私の耕耘機と同型のものが幾台も石黒地区に入り、私の村でも2、3台入りました。そして、3年後には耕耘機のない家はほとんどなくなりました。機械の型は、複数の会社から売り込みもあり様々でした。
 耕耘機の普及によって、それまで農耕馬として飼われていた馬は無用の長物となり姿を消しました。しかし、しばらくは空っぽの馬屋を見るたびに長年一つの屋根の下に暮らしてきた馬のことが思い出され一抹の淋しさを覚えたものでした。
        〔居谷在住〕