ハサ木と過疎化 田辺雄司 昭和35年(1959)頃のことだと思います。当時、現在の国道8号線が、「産業開発道路」という名称に決定して実現へ向けて進んでいた頃の事でした。 そのころ、私は地滑り跡地で隣村の人たちを7〜8人頼んで、モッコを使って田堀り(新田開発)をしていました。田堀は天候にもめぐまれ順調に進んでいましが、ハサ木も地滑りで押し流されてしまったのでハサ用の木もありません。そのため稲の乾燥に困ると思い森林組合に相談しますとタモノキとポプラが良いといいうことで各々10本ずつ注文しました。間もなく注文の苗木が届いたということで上石黒まで受取に行ってきました。
ポプラの木は田から少し離れたところに植えました。 その後、両者の成長を見ていますとやはりポプラの木はとても早く1年とは思えないほど背丈も幹回りも大きくなりました。タモノキの方はそれに比べるととても成長が遅いように思われました。 秋には少しずつ肥料をくれて成長をうながしました。田堀も徐々に進みました。どれも7畝〜8畝くらいの面積の田ばかりでしたが、重機のない当時はモッコを使って二人で担いで土を運ぶので中々大変な作業でした。 そのころには今日の国道8号線の産業開発道路の法線も決まり実現が具体化して来た頃でありました。 植えたポプラのハサ木は後ぐんぐん成長して数年でハサ木として稲かけハサ6〜7段に縄を張れるようになりました。しかし一方のタモノキは未だ稲を掛けるハサをつくるほどに成長していませんがいずれ立派なはさ木になるものと楽しみにしていました。 ところが昭和48年、多分、田中角栄さんが総理大臣になられた頃と記憶していますが、大型台風の直撃を受けて4本のポプラの木が根こそぎ倒れてしまいました。 道路側に倒れたため。さっそく業者がトラックで来て2日がかりて始末してくれました。残ったのは未だ細い木が2、3本でした。しかし、残った木も数年のうちに大きく成長してハサに利用できるようになりました。私は、梯子をかけて不要の枝を打ち落としてハサ木としての利用しやすいようにしました。 その時のことで今でも覚えていることは、枝打ちをした箇所から出た樹液を求めてやってきたらしいカブトムシやカミキリムシが沢山見られたことでした。その後、ためしに樹皮を鉈で傷つけておくと、やはり2、3匹のカブトムシがやってきていました。 さて、念願の道路も現在では国道に格上げされて冬も無雪道路となりました。ハサ木を植えたころに掘った田も道路開削により分断されて四角形だった田も三角など変な形の田になってしまいました。 そして、タモノキもハサ木として利用できるようになりましたが、過疎化が急激に進みかつては18軒あった戸数も3軒に減ってしまいました。今では私も80歳代半ばとなり農作業も出来なくなりました。また、コンバインによる稲刈りに変わりハサは不要なものとなりました。 今では、巨木となったポプラの木を眺めるたびに当時の事を懐かしく思い出すとともに時代の激しい移り変わりを改めて感じております。 (2012.10.6 (居谷在住) |