ワラ製品の雪晒し
                          田辺雄司
 昭和の初めごろは、長い冬の間、男衆は藁仕事に、女衆は夕飯の後片付けのミンジョウ仕事が終わると、コタツに入ってツギ仕事〔針仕事〕をしたものでした。
 また、祖母は越後縮みの青苧を一本づつ爪先で細く裂いて糸にする仕事に精を出した。春になると業者がその糸を棒ばかりを持って買い付けにまわったものであった。
 一方、男衆は、最初はワラをすぐり〔苞の部分を取り去る〕をしてニワの作業場に10把ずつ束ねて立てておき、横槌でワラを石の台の上でたたき柔らかにする。冬の寒い夜で、もうっすらと額に汗がにじむほどの作業であった。沢山のワラを叩くときには夫婦で1人がワラをまわし、夫婦でさい槌で叩く場合は子どもがワラをまわしたものだ。
 こうして、柔らかくしたワラを使ってフカグツ、スッペイ、草鞋、草履や道つけに供えてカンジキ、ワラボウシなど。さしずめ、冬に必要なものを作ったものだった。それらを作り終わると、米を入れる俵編みをした。昔は、虫が食うというので、「サヤ」と呼ぶ米を入れた俵にかぶせるためのもう一枚の俵を編み、3ヵ所をしばり、居間の天井にぶら下げて保存したものだった。
 供出する米を入れる俵は横に5か所縛り、縦縄を十文字に掛けて作りました。
 俵編みが終わると夏に備えてのワラ製品の荷縄、ミノ、モッコ、足中草履、草鞋などを作った。笠も作ったがこれは主に女衆の仕事であった。
 また、馬や牛の背中につけて田打ちや田かきで万鍬や馬耕を取り付けるための鞍も作った。これらはワラを束ねて飼っている牛馬に合うように作ったものだ。
 こうしてワラ仕事に精を出しているうちに、雪も降り止み春の気配がしてくる。3月に入ると春木〔ボイや薪作り〕が始まり、朝から夕方までノコギリやナタを使って山の斜面で木を切り出す。
 この頃になると、雪晒しが始まった。雪さらしは、冬の間に作ったワラ製品を雪の上に広げてその上を雪で覆って置く。こうするとワラの渋が抜け色もきれいになるのだった。雪晒しで毎日、晒したワラ製品の上に雪をのせるのは子どもの役割であった。雪晒しも2週間ほどで終り、晒し終わったものは軒下など日当たりの良いところに吊るしてかわかしたものであった。