田植えの思い出
                            田辺雄司
 昭和の初めごろの私の家では、田植えには7、8人のトウド〔手伝い〕を頼んだものでした。
 ですから、前の日の苗取りにも2人ほどトウドを頼んでやったものです。とった苗は前の日のうちに数えて、それぞれの田に運んでおきました。苗には3把苗、4把苗などがあり、〔3把苗とは1坪に3把植える苗数を結わえた束のこと〕その田の面積に応じて苗を数えておくのでした。それから、植える人に、この田は2本植えにとか、3本植えにしてほしいということをあらかじめ言って、植えてもらっていました。
 田植えは大勢でしたから、それはにぎやかなものでした。一日中、笑い声が絶えることなく続き、子供の自分も楽しい気分になったものです。
 当時は、竿植えといって、竿の両端は田植えの上手な人が植え中にいる人は、5株ずつ植えながら後に下がって植えたものでした。
 また、あらかじめ田には一面に苗を投げておきますが、それでも植えて行って苗が足りないと、コナエブチの子供に「苗をくれや」と言う声がかかり、子供はねらいをつけて投げるのでした。運悪く、届かずにその人の前後に落ちると泥水がかかるので「へたくそ、ほれ、大事なところがよごれたがな」などと言ってみんなを笑わせるのでした。
 また、前の日の苗取りに苗に悪戯をしておいて田植えの場を盛り上げるようなこともしたようです。たとえば、小束の苗を二把作り、その周りに苗を当ててあたかも一把の苗のように見せて結わえておく。それを拾って植えようと結びを開くと中から二把の苗が出てくる。驚いて「わぁ、おらどうしょばぁ」などと言っているとみんなが、「今度はお前は双子が生まれるぞぉ」などと言い、また笑いの渦が巻き起こるという具合でした。
 午後の3時ごろ、中飯の時間になると、大きな鉄瓶と黄粉をつけた大きな握り飯や、タクアンなどを持ってきて、田の畦で皆でにぎやかに中飯を食べたものでした。
 家で、お勝手仕事を受け持った、その家の女衆も大勢のご飯の支度をするのは大変でした。夜にはトウドの人は漆塗りのお膳でご飯を食べてもらったものでした。たいていの年は8人ほどの人から2日間来てもらうので2日目の夕方は早めに上がってもらい、夕食を食べた後に日当を払うのが常でした。
 当時の田植えは6月に入ってからでしたから雨の中の田植えも珍しくありませんでした。初夏とはいえ気温が低く指がしゃがんで思うように苗を分けることもできないということもありました。そんなときには、家からワラを何束も持って行って、焚き火をしてあたってから再び田に入るのでした。それに、今のように良い雨具があるわけではなく、蓑に笠のいでたちなので衣服が雨にぬれてしまい、お昼には着替えなければなりませんでした。
 田植えがすべて終わったときには、夕飯時にホウの葉にぼた餅をのせて神棚や仏壇に供え、無事に稲のしつけが終わったこと感謝したものでした
 あのころが百姓として最もやりがいを感じたと、今にして思われます。