リヤカーを背負う人
                           大橋洋子
 私たちが子どもの頃、最も遠い「とまり山」に行くには大野から1時間近くかかりました。その他に「いり山」「花坂」などの遠い作場がありましたが、いずれもリヤカーの通れる道から細い山道を上ったり下ったりしたところにありました。
 秋の稲刈りの頃は、刈った稲をリヤカーの通る道まで背負って運ばなければなりませんでした。
大野集落から下石黒への道
 ある日、村はずれの親子地蔵さんの近くの道で下石黒の人がリヤカーを背負って歩いて来られる姿を見て驚きました。下石黒は大野から30分ほど下った所にある集落です。そこからとまり山へ行くには1時間半はかかったものと思われます。
 子どもの頃によく学校の帰りに、親に頼まれて石黒に唯一軒あった下石黒の麹屋さんに寄って麹を買ったり、ササ(チマキザサ)の葉を採るのに時々下石黒をまわって家に帰りました。6月の田休みには餅をついて食べる習慣があり、毎年この時期になると親に、「きょは、がっこのけえりにシモ(下石黒)まわって、ササッパ採ってきてくれや」と言われ、下石黒の村はずれの道沿いの笹藪に入りガサゴソとみんなで両手いっぱいにササの葉を抱えて帰ったものでした。当時の下石黒から大野の間はツマキダと呼ぶ広いブナ林に出るまでは急勾配の道を上らなければなりませんでした。ですから、リヤカーを使うには背負って上がるほかなかったのです。
 今では、稲や米を背負う光景は見ることも出来ないでしょうが、当時は、夕暮れ時になると泊山方面から私の大野集落の西方にある道(昔の松之山脇街道)を宵荷(馬の草など帰りに運ぶ荷物)を背負って足早に帰っていく下石黒や上石黒の人達の姿を毎日のように見たのは、はるかに遠い昔のことのようでもあり、その鮮明によみがえる光景はついこの間見たことのようにも思われます