親たちの昔の暮らしを思い出して
                         田辺雄司
 私の子どもの頃、両親や祖父母たちは実によく働いたものだと、当時の暮らしを今でも時々思い出します。
 夏の日の長い頃は午後の8時頃、すでにあたりが暗くなってから馬の餌にする大束の草を背負って帰ってきました。そして馬の草を片づけると汗に濡れた山着物やモモヒキをタネ(家の脇の池)ジャブジャブと洗って物干し竿にかけてから足を洗い、雁木から家の中に入って来るのが常でした。
 私たちは腹がへって待っていられないほどでしたが、昔は一家そろって食事をすることが決まりでしたから、親たちの帰りを今か今かと待っていました。
 また、一家そろっての夕飯時には親たちの話を聞いたり、自分たちの学校での出来事などを話したりしました。ときには、学校で先生に怒られたことを話して、そこでまた親に叱られることもありました。そんな時には、母は、「学校に行ったらいい子になっているんだぞ」必ず言いきかせたものでした。
 夏は、夜なべといっても大した仕事はなく、暑い日中の仕事に疲れるので早く寝ましたが、祖母や母は着物の繕いなどを毎日のようにしていました。
 やがて、夏も終わり忙しい秋の取り入れもようやく終わって、山々の紅葉も終わる頃になると各家では冬支度が始まりました。
 縁の下に風が入らないように藁を2、3束ずつ束ねて「ネジワラ」と呼んで縁の下に押し込むようにしてふさぎました。また、雪だなかけも大事な仕事でした。各自の家の冬囲いと同時に集落総出で学校の縁の下をふさいだり、雪だなをかけたりする仕事もありました。
 そして、本格的な冬がやってくると父は、毎朝早く起きて、吹雪きが入らぬようにヨシズを立てかけてある雪だなの先の雪を片づけて、自分の家の受け分の道踏みをした後、家に入って一休みするとワラ仕事に取りかかるのでした。また、学校の雪だなの除雪と道踏みも輪番にしていましたので、札がまわってくると、自分の家のみちつけの後でやりました。
 日中は、父はほとんど二階でミノやニナワなど農作業に必要な用具を作っていました。夜になると軟らかく叩いた藁を一束持って囲炉裏に背を向けひざの上にはボロ布をかけてコデナワを毎晩のように一束の藁がなくなるまでなうのでした。
 祖母は相変わらずうす暗い石油ランプの下で苧(青苧)を爪で細かく割いて紡いでいました。その横では母が家中の正月着物の用意をしたり、繕い物をしたりしていました。
 私たち子どもは祖父が囲炉裏で背中あぶりをして膝元にかけている綿入れの中に足を入れてコタツ代わりにして祖父の語る昔話に耳をかたむけていました。囲炉裏では大きなクイゾ(丸太の薪)がトロトロと燃えてチャガマの湯が煮えたぎる音が微かに聞こえました。
 こうして父はムシロ10枚分ほどののコデナワをない終わると、今度はコデナワより太いスベナワをない始めるのでした。スベナワの用途は数多く、秋のハサ作りや春夏の野菜のシバ〔支柱〕立てに使ったり、焚き物のニオ(野外に積みあげて乾燥保存する)作りにつかったりと色々ありました。
冬の居谷集落

 スベナワはある程度は雑なところもありコデナワに比べてなうのも速かったのですが、太いだけに藁はたくさん必要でした。それだけに、藁スグリやワラ叩きには時間がかかり大変でした。父と母が二人で何束もの藁を叩くときには藁回しに私たち子どもも呼ばれて手伝いました。寒いニワ(作業場)で藁を回したり前に出したり引いたりすると寒さも忘れてしまうのでした。
 そんな夜は仕事が終わると決まって母はヘリョウ(駄賃)に温かいソバガキを作ってくれるのでした。そして、自分たちは塩を入れて子どもたちには黒砂糖をほんの少し入れてくれるのでした。
 ランプと囲炉裏の火の明かりの中でみんなで食べたあのソバガキの美味しさを今でも忘れることができません。