稲刈りの思い出

                 大橋洋子

 日暮れも早い頃の稲刈りは、早朝から夕暮れまで休む間も惜しんで働きました。特に遠山の稲刈りは場所によっては刈り取った後が大変な仕事でした。
 稲刈りガマで一株づつ刈り取り、片手いっぱいになると足元に置き、もうひと握りを少し交差して重ねておく。
 少したまると稲を紐代わりにして、上から押さえながら持ち上げた稲を空中でぐるりと回し、稲の紐をねじって親指で押し込み手際よく器用に束ねるのですが、最初の頃は空中一回転で稲をばら撒いてしまうこともありました。
 束ねた稲は田の畦めがけて放り投げ、届かぬ所はまとめておいて後で肩に担いで畦へ運び出しました。
 日が傾きかけると気早に四把づつ小脇に抱えては穂先を交互に決まった把数を積み重ねていくと、エゴの山が畦に立ち並びました。
 エゴの数で収穫の出来高が分かり出来が良ければ苦労も喜びに変わる瞬間でもありました。
 翌日は、前日のエゴをリヤカーが使える道路まで背負い上げるのですが、これがとても難儀だったのが頭から離れません。急な山坂なので腰を二つ折りにして疲れると道端の草木にすがりながら足を踏ん張り、坂を這い上がるようにして背負い上げるのを何度も繰り返してようやく終えるのでした。
 リヤカーに積み替えて家の近くのハサ場まで何往復も運ぶのですが、道路は上り坂、下り坂、ぬかるみ、砂利道、でこぼこ道という状況で大変な重労働でした。
 あの生稲の背負いあげ作業は軟弱体には辛い仕事で足のガクガクし息苦しかったことが忘れられず、あの姿、格好を想い出すと今でも涙がこぼれそうになります。とにかく、必死で暮らした時代でした。
 その険しい斜面の棚田「とまりやま」に、待望の索道が引かれたのは昭和41年でした。