昔の家畜、馬と牛
                       田辺雄司
 昭和35、6年頃までは、ほとんどと言ってよいほど多くの家で馬か牛が家畜として飼われていました。馬は、水田を沢山持っている家や身上の良い家で飼われていたようです。その他の家では牛を飼っていました。
 子どもの頃は、どうしてそうなのか、と考えたこともありましたが、年をとるにつれてその理由が分かりました。
 馬は、仕事は速いのですが、年をとるとお金を出して若い馬に変えなければなりません。しかし、牛は毎年子どもを産ませて育てて売ることができ相当のお金が入ったのです。
 また、馬は飼育が牛に比べて大変でした。まず、牛に比べて沢山の草を食べます。毎日、大束の草を3束は刈って背負ってこなければなりませんでした。
 次に、馬は牛に比べて病気をしやすいことでした。それから、馬は眠るときも立ったまま 眠る動物ですが具合が悪くなると座り込んだり、苦しいと暴れますので取り扱いが大変です。こういうときは大抵ガスが腸にたまって放出できず苦しんでいることが多いのです。それで足を縛って寝せておいて2、3人で藁で腹をこすってやるのでした。(その他病気のときは腹にムシロをまいてニナワで馬屋の天井のネダからつるすように固定することもありました)すると、大きな音をたててガスが放出されて馬はすぐに立ち上がり体をブルブルとふるって元通り草を食べ出したものでした。ガスの溜まる原因はたいてい食べ物にありました。特に人間が食べるようなものを多く与えすぎたり、豆粕などを沢山与えすぎると起こる病気でした。
 とはいえ、田かきのころや、稲運び、米運びに馬が使われたときには、馬の特に好む草を刈ってあたえ、豆粕板(直径1m、厚さ20pほどの円盤で真ん中に穴の開いたもの)を割って夜のうちにシッチョウ鍋で煮て他の餌と混ぜて適量をあたえたものでした。
 先に書いたとおり馬は寝たときが具合が悪い証拠であり、牛は立ったままで居るときにが具合が悪い証拠だと言われたものでした。当時は、獣医師などは近くには居ないので伯楽(はくらく)と呼ぶ、馬の血をとったり爪を切ったりする人を招いて診断してもらったものでした。

 次に、馬について自分が経験したことについて話してみたいと思います。それは私が農業を始めた頃(昭和30年すぎ)のことですが、田かきの時のことでした。兄と2人で馬を使って田かきをしたときのことです。
 兄と私は午前も午後もワッパに御飯を詰めて持っていっておやつの時間になると、それを2人で分けてお茶を飲みながら食べるのでした。馬は田から上げてその辺の草の沢山あるところに放しておいて好き放題にさせて休ませておきました。馬も新鮮な美味しい草を沢山食べて、さぞ満足するだろうと思っていたのです。
 ところが、再び仕事を始めると馬は田の中で一向に言うことを聞きません。兄は短気だったので尻を生木で叩くのですがてこでも動きません。鼻っとりの私も鼻とり棒を引っ張ったり押したりするのですが全然動きません。その様子を見ていて私たちも何となく馬の気持ちが通じたのでしょうか。とにかく万鍬を馬からはずしてもう一度草むらに連れて行って、そこで2人で美味しそうな草を刈って馬の前に置くと、馬は満足そうに食べ出しました。そして私たちは頃合いを見計らって再び田に入れて万鍬を取り付けて仕事を始めると、お昼まで休むことなく働いてくれました。この時に感じたことは、草が生えているから勝手に食べろでは、馬にしてみれば俺だって難儀をして働いているのだ、少しでも手を加えたものを喰わせてくれ。という気持ちだったのだろうということでした。
 その後は私たちが休むときには馬の好きな草を一束刈り取って与えるようにしました。その後は、このようなことは一度もありませんでした。

 それから、これは、私が子どもの頃から牛に荷車を引かせて駄賃とりをしていた人から聞いた話です。
 その人はいつも自分も荷物を背負って荷車を牛に引かせていました。
 ある時坂道を上りきったところでのどが渇いたので牛に勝手に草を喰わせて、自分は近くの水飲み場で水を飲みアンボウを食べてから放しておいた牛を荷車に繋ごうとしたところ、牛が暴れ出したとのことでした。
  今まで一度もそんなことはなかったのですが、いきなり牛はその親父さんの腰帯に角を掛けて振り回したとのことでした。その親父さんは振り回されながら牛の気持ちが分かったそうです。それで「野郎、俺がわるかった、勘弁してくれ」と牛の前に手をついて何度も謝ったそうです。すると牛も落ち着いて静かになったそうです。そして牛にも水を飲まし残ったアンボウをやるとおとなしく荷車を引いて歩き出したとのことでした。
 以来、私は、我々は、とかく「畜生」などと呼び動物を馬鹿にしますが、ただ人間のようにしゃべれないだけで感じることはそう違わないのではないかと思っています。