民具補説 ドブロク造りと絞り道具 昔から石黒では、ドブロクが大抵の家で造られていました。ドブロクとは米や麹を取り除かない酒のことですが、自分で飲むときにはそのまま飲んでいました。 しかし、お客などに出す場合にはザル漉(こ)しにしたり、手ぬぐいや晒しで袋を作って漉しました。そして、石黒では「カンナベ」と呼んでいたヤカンで温めて御飯茶碗で飲んでいました。 ドブロクはよくできることもありましたが、時には酸味が入ることがありました。 その後、酒屋(酒造)に出稼ぎに行く人が多くなり、酒屋での作業をとおして学んだことをドブロク造りに生かすようになりました。また、持ち帰った酒粕やドブロクを絞るための目の細かい袋を使うようになるとよい酒ができるようになりました。 酒屋から持ち帰った袋で漉して石綿を通すと酒店で売っている清酒とほとんど変わらないものに出来上がりました。 こうして、終戦後の物不足の中でドブロクを造り、清酒にして売る家もでてきました。当時(昭和24年ごろ)は米1俵2千円前後のころに酒にして売ると1万円にもなったといわれています。 この頃に石黒から大量の酒が酒ブローカを通して持ち出されました。 当時は税務署は高崎管内でありましたが、時々酒税部(石黒ではショゼブと呼んで恐れた)が令状をもって家の中に入り天井の積みワラの中までまで探し調べてものでした。密造酒がみつかると税務署に呼び出された上に罰金をとられるのですが、石黒村全体の情報網も造られていて多くの場合、酒税部が村に到着する前に連絡が届いたようでした。 こうして得た金で台所の改善をしたり若夫婦の部屋を造るなどの普請をする家もあるほどでなかなか酒造りは盛況な時代でした。「石黒正宗」とか「黒姫酒」などと呼ばれて広く闇ルートで出回った時代でした。(聞くところによると石黒村の近在の村からも黒姫酒の名で多くの酒が出たとのことです) 当時、 ドブロクを漉す箱(フネと呼ばれた)は各家によって大小様々でしたがおよそ下図のようなつくりでありました。 ドブロク絞り具 文・図 田辺雄司 (居谷) |