ひとらごと DATE20120125

 
         「藁の力展」を見て思ったこと

 昨年の秋に市の博物館で「藁のちから展」が催された。担当の学芸員渡辺さんからは、春のうちに、本HPに掲載された藁に関するデータも参考にしたいというお話があった。それで、「HP石黒の昔の暮らし」に多くの寄稿をいただいている石黒在住の田辺さんを紹介した。その後、熱心に取材された内容が冊子「藁仕事つれづれ」に詳しく載っている。
 私は特別企画の講演があった日に、展覧会に訪れたが、なかなか見応えのある展示であった。私は、自分が子どもの頃の生活と藁との関わりが深かったことを改めて思い知らさた。

 私の子ども時代は敗戦直前から昭和30年頃までであるが、戦争がもたらした当時の生活物資の不足は今からは想像できないものであった。あのような時代であればこそ藁と日常生活の関わりは一段と深いものであったのかもしれない。
 
 夜は藁布団に寝て、朝起きて着替えると、藁ムシロの敷かれた座敷の囲炉裏の火棚から藁製の深グツを下ろしてトマグチ〔玄関〕に出る。トマグチの壁には箕や藁ボウシ、シブガラミ、荷縄などの藁製品がずらりと並べて掛けてある。家によっては藁手袋も使われた。そこで深グツにカンジキを着けて外に出て道踏みをする。当時の朝の小路の道付けは子どもの仕事であった。 
 道踏みを終えて家に入ると、囲炉裏の藁灰の中でアンブが焼かれている。時には藁ツトッコを使った自家製の納豆がおかずになる。朝飯を食べると再び藁製の深グツを履いて、藁ボウシを被って登校する。学校では素足に藁ゾウリを履いて過ごす。
 寒中の夕方下校すると「まあ、よろばた〔囲炉裏端〕に来て火に当たれや」と言って祖母が藁束を1、2把燃やしてくれる。藁はめらめらと燃え上がるので一把を分けて火加減を調節しながら燃す。餅米の藁だと残っていた籾が音を立てて白いアラレのように膨らむ。子どもたちは素早く拾いとって食べたものだった。
 朝食がすむと父は藁を押し切りで細かく切り刻み、飼い葉桶の中でコヌカとまぶして囲炉裏で沸かした茶釜の熱湯をかけて馬に与える。熱湯かけたときの藁とコヌカの混じった独特な香りを今も思い出すことができる。また、馬屋の敷き藁は時々新しいものを入れてやり、年何回か「馬ごえあげ」と呼び、敷き藁と糞と尿を分けて取り出し貴重な田畑の有機飼料として使った。

 冬の主なる仕事は藁仕事だ。まず、藁をすぐり〔基部の鞘葉の部分を取り除く〕をして、それを平らな石の上で左手で藁束を持って回しながら右手でヨコズツを使って叩いて柔らかくする。二人一組で行うこともある。〔叩いた藁はその日に使うが余ったら生返らないようにムシロに包んで置く〕。
 そうして叩いた藁を使って、ムシロを編む、俵を編む、カマスを編む、縄を綯う。縄にはすべ縄、こで縄、荷縄などがある。その他、クツ、深グツ、半中ゾウリ、ワラジ、スッペ、シブガラミ、藁ボウシ、テゴ、ツグラなどあげればまだまだある。その他、当時の生活の中での藁の使い道をすべてあげるとなると切りがない。
 とにかく、当時、藁は未だ稲穂をつけたうちから、子どもにとっても身近な存在であり、稲バサに掛ける前の匂い、ハサで乾いた後の匂い、脱穀を終えて正真正銘の藁となったときの匂いと、今でも嗅覚が覚えているほどである。
 しかし、今日では、生活様式が激変して藁の需要は極めて少なくなり、稲刈り時にコンバインで細断処理してしまうので、藁を見ることさえ難しい時代となってしまった。おそらく、現代っ子には藁の匂いどころか「藁」のイメージさえ持てない者も多かろう。
 このままでは「藁」は死語にもなりかねない。
 渡辺学芸員の「柏崎地域における藁の文化」〔展示会冊子〕によれば、下谷地遺跡〔吉井〕からは、稲を根本から切り取る石包丁が発見されたという。つまり、すでに二千年前に我々の祖先は藁の力を知りそれを利用していたのである。
 こうして今、まさに我々の世代は、数千年にわたって連綿と続いてきた藁の文化が、ほんのわずか二、三十年間に消滅してしいく様をこの目で見てきたのである。

 そして、現代、藁に代わって出現したものは石油の力であると言っていいだろう。だが、需要が急増する現代では石油の力は長くは続かない。そこでエネルギー分野では次の力である原子力に移行しつつあったところに起きたのが、福島の悲惨な原発事故である。
 幸い、この事故を教訓に世界の多くの国々で太陽光発電や風力発電など自然の力で定常的に得られるエネルギーに切り替えようという動きが見られる。
 また、最近〔2011.9.20〕、我が国で世界初の人工光合成に成功したと報じられている。これが実用化すれば太陽エネルギーから継続的に有機物が合成できる。太陽の寿命はこの先50億年といわれるから、まさにこれこそ21世紀にふさわしい資源となる。

 今回の展示会を通して、私は自然の営みから生まれ出る藁を利用した二千年にわたる文化に接して、考えさせられることが多かった。とりわけ、この深刻な原発事故の最中にあってはなお一層のことである。
 我々は一日もはやく、1950年代に途絶えた藁文化につながる自然エネルギーの本格的な導入と画期的な資源となるであろう人工光合成の実用化に向けて努力していかなければならない。
 それも、政治に期待するばかりではなく国民一人一人が自己の問題として共有して意思を表示していく事が何より大切であると思う。

(編集会 大橋寿一郎)