例の匂い

 昨日〔1999.3.31〕、36年間の教職を定年退職した。今朝、目を覚ますと、そこは昨日までとは異なる新鮮な世界であった。
 心が弾み、朝飯前に畔屋の山に自転車で出かけた。未だ窪地には残雪が見られたが、道端にはショウジョウバカマやオウレンの花が咲いていた。
 峠道を上りはじめて、しばらくすると「例の匂い」が鼻をついた。「例の」とは今までにも何度か経験した忘れられない匂いであるからだ。それは、漬け物桶の匂いのような、どちらかといえば汚物を連想させるような匂いであった。せっかくの早春の風薫る山にやって来て出会いたくはない匂いである。
 とくに、自宅の庭でここ数年、ちょうど今頃、毎年この匂いが気になっていた。自分は妻が池の水で漬物桶を洗って捨てたせいだと決め込んでいた。そのことで妻を責めたこともあった。
 ところが、今朝、山道でこの匂いに出くわした。こんな山奥まで漬物桶をもってきて洗う者もあるまい。自分は足を止めてあたりを観察した。しかし、とくにその源らしいものは見当たらない。仕方なく犬のようにくんくんと鼻を利かせてその匂いの元に迫っていった。すると一本のヒサカキの木にたどり着いた。茎の先に一列についた細かな黄色い花に鼻を近づけるとまさしく例の匂いである。そういえば、自宅の池の縁にも小さなヒサカキが一本植えてある。
 しかし、私には意外なことに思われた。だいたい、こんな下品な匂いのする花はあるはずはないと思っていたし、こんな匂いにひかれる蝶や蜂がいるものかと思っていたからだ。

 数日後、自宅の池の縁に植えてあるヒサカキに目をやると、花に数羽の昆虫が来て蜜を吸っている。よく見ると数羽のギンバエである。動物の死体や糞から生まれるギンバエにはさぞかし魅惑的な匂いなのであろう。その後も、観察しているとこのヒサカキの花にはミツバチも来て蜜を吸っている。

 「花は芳香、香しきもの」とは人間の浅はかな偏見である。また、蜂や蝶は芳香を求めて花によって来るもの、これもまた偏見である。〔獣糞や汚水に好んで集まる美しい蝶は多い〕
まさに、植物にとっては、確実に花粉の媒介者を呼び寄せることのできる香りこそベストなのである。

 退職初日の思いもかけない発見であった。
 帰宅後、朝食時にこの一大発見を話題にしたが、植物に興味のない妻の反応は期待はずれというところであった。
         1999.4.1 〔大橋寿一郎〕